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戸郷翔征さんは、宮崎県三股町出身の読売ジャイアンツの投手で、2023年のWBCでは侍ジャパンにも選ばれた球界を代表するエース右腕です。
独特なアーム式投球フォームと多彩な6球種の変化球を武器に、高卒ドラフト6位という評価を大きく覆し、ジャイアンツを代表するピッチャーへと成長しました。
そんな戸郷さんの実家は宮崎県都城市にあり、父親・健治さんによる熱血な野球指導と、母親・ヒトミさんによる献身的なサポートが、現在の飛躍の礎を作ってきたことで知られています。
この記事では、戸郷翔征さんの実家や家族構成について詳しくまとめます。
記事のポイント
①:実家は宮崎県都城市、自然豊かな野球一家で育った
②:父親・健治さんは長距離トラック運転手で元野球人
③:母親・ヒトミさんは看護師でバレー経験者
④:兄・悠大さんは山本由伸と都城高校の同級生
戸郷翔征の実家が生んだ野球人生の原点
- 父親・健治さんの職業と野球への情熱
- 父親の熱血教育法と投球フォームの秘密
- 母親・ヒトミさんの職業と名前の由来
- 実家がある宮崎県都城市の環境と自然
- 三股町立三股西小学校と野球との出会い
- 妻ケ丘中学校での野球修業と投手転向
父親・健治さんの職業と野球への情熱
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戸郷翔征さんの野球人生を語るとき、最初に名前が挙がるのが父親・健治さんの存在です。
健治さんの熱血な指導と野球への深い愛情が、現在のエース投手を生み出した大きな原動力になっています。
| 本名 | 戸郷翔征(とごう しょうせい) |
|---|---|
| 生年月日 | 2000年4月4日 |
| 2026年04月22日現在の年齢 | 26歳 |
| 出身地 | 宮崎県北諸県郡三股町 |
| 身長 | 187cm |
| 所属 | 読売ジャイアンツ |
| ポジション | 投手(右投右打) |
| ドラフト | 2018年ドラフト6位(巨人) |
| 家族 | 父・健治さん、母・ヒトミさん、兄・悠大さん |
| 続柄 | 人物 | 備考 |
|---|---|---|
| 父親 | 健治さん | 長距離トラック運転手・高校まで野球を経験 |
| 母親 | ヒトミさん | 看護師・ママさんバレーの経験者 |
| 兄 | 悠大さん | 自衛官・山本由伸と都城高校で同級生 |
| 本人 | 戸郷翔征 | 読売ジャイアンツ投手 |
長距離トラック運転手という仕事と野球への情熱
戸郷翔征さんの父親・健治さんの職業は、長距離トラック運転手です。
全国各地を走り回る仕事は、長時間の運転と不規則な生活が続く過酷なものですが、そのような多忙な日々の中でも、健治さんが息子の野球指導に注いだ情熱は並大抵のものではありませんでした。
宮崎県は毎年プロ野球チームの春季キャンプが行われる野球文化の根付いた土地柄です。
地元を訪れるプロ野球選手の姿を幼い頃から目にしながら育った健治さんにとって、野球は生活の一部であり、人生における大切な価値観でもあったのでしょう。
父・健治さんの野球に対する熱量は並ではなく、翔征さんが生まれる前から「男の子が生まれたら必ず野球をやらせる」と決めていたほどの野球好きでした。
長距離トラック運転手という仕事の合間を縫いながらも、息子に野球の基礎を教え、練習環境を整え、走り込みには車で伴走するという徹底したサポートを続けてきた健治さんの姿勢が、現在の戸郷翔征というピッチャーを生んだ原点といえます。
トラックで全国を走る仕事をしながらも、地元宮崎に帰るたびに息子の野球に全力で向き合った父親の姿は、翔征さんの心に深く刻まれているはずです。
「男の子なら野球」という父の固い信念
健治さんは、翔征さんが生まれる前から「男の子が生まれたら野球をやらせる」と心に決めていたといいます。
この言葉には、宮崎県という野球が盛んな土地で育ち、自身も高校まで野球に打ち込んできた健治さんの野球への深い愛情が凝縮されています。
実際、翔征さんが幼稚園に通う前の段階から、健治さんは息子に野球の基礎を丁寧に教え始めました。
小学1年生になると本格的に軟式野球チーム「三股ブルースカイ」に入団し、野球を中心とした生活がスタートしています。
ここ、気になるポイントですよね。
「男の子なら野球」という父の言葉は単なる親の願望ではなく、実際の行動として翔征さんの生活全体に反映されていきました。
投球練習ができるよう自宅の駐車場に手作りのネットを設置し、走り込みには車や自転車で後ろから伴走し、フォームについては自分の判断で矯正を行わないと決断するなど、一貫したスタンスで息子の野球を支え続けました。
「男の子なら野球」という最初の一言が、やがて「ジャイアンツのエース」という結果へと結びついていったのです。
高校まで野球を続けた健治さんの経験
健治さんが高校まで野球を続けた経験を持つことは、翔征さんの指導において非常に大きな意味を持ちます。
野球を経験した父親だからこそ、ピッチングの基礎、体づくりの重要性、メンタル面のコントロールなど、長年かけて身につけた知識を息子に伝えられたのです。
特に注目すべきは、独特なアーム式投球フォームを「矯正しない」と判断した場面です。
野球を知らない親であれば、専門家の意見に従ってフォーム矯正を勧めたかもしれません。
しかし健治さんは、息子のフォームには独特の可能性があると見抜き、「矯正してケガして野球人生が終わるよりも、このまま続けてダメになる方がいい」という判断を下しました。
この決断が、後に「変則的なフォームから繰り出すキレのある速球と多彩な変化球」というトレードマークを守ることにつながったのです。
高校野球を経験した父親だからこそ持てた先見の明が、翔征さんの可能性を広げた大きな要因といえます。
中学2年生の頃から投手転向した翔征さんのフォームを、当時の監督と父親が一致して「矯正しない」と決めた判断は、現在振り返ると非常に正しい選択でした。
父と息子に共通する「負けず嫌い」の性格
スポーツ報知の父の日企画で、戸郷翔征さんは父・健治さんについてこんな言葉を残しています。
「お父さんは野球に限らず何に対しても負けず嫌い。それは僕と似てる」という言葉です。
2人の共通点として「負けず嫌い」な性格を挙げたのは、翔征さんにとって父親が最も身近なライバルであり、お手本だということの表れかもしれません。
健治さんの「負けず嫌い」は、過酷な仕事である長距離トラック運転を続けながらも、息子の野球を全力でサポートし続けた姿勢にも表れています。
翔征さん自身も、ドラフト6位という低い評価に悔しさを感じながらも、プロの世界で着実に実力をつけてきた反骨心を持つ選手です。
「野球を始めるきっかけをくれた人なので、本当に感謝しています。時には厳しく言われたこともありましたけど、野球の楽しさを教えてもらいました」という翔征さんの父への感謝の言葉は、2人の深い絆を物語っています。
長距離トラック運転手としての多忙な日々の中で、息子の夢を支え続けた健治さんの姿は、翔征さんが投手として成長するうえで最大の支えになってきたのではないでしょうか。
父親の熱血教育法と投球フォームの秘密
戸郷翔征さんの成長を語るうえで欠かせないのが、父・健治さんによる具体的な教育法です。
自宅環境の整備から走り込みの伴走、そしてフォームへの不干渉という一貫した姿勢が、今日のエース投手を生み出しました。
| 教育法 | 内容 | 目的 |
|---|---|---|
| 手作り投球ネット | 自宅の駐車場に釣り用ネットを改良 | 毎日の投げ込み練習環境の確保 |
| 走り込みの伴走 | 車・自転車で後ろから伴走 | 長距離ランニングの継続サポート |
| 多種スポーツの経験 | 水泳・バレーボールなど多様な運動 | 肩甲骨の可動域拡大・体力向上 |
| フォームの不矯正 | アーム式フォームを一切修正しない | 才能の自然な開花・ケガ防止 |
| 環境のための引っ越し | 中学進学前に新居へ転居 | 少人数の野球部での成長機会 |
自宅の駐車場に手作りした投球ネット
健治さんが行った最もユニークな取り組みの一つが、自宅の駐車場に手作りの投球ネットを設置したことです。
趣味の魚釣りで使っていたネットを改良してピッチング練習用のネットを作り、小学生の翔征さんが毎日投げ込み練習できる環境を整えました。
プロ野球選手の中には幼少期に練習環境に恵まれず苦労した選手も多いですが、翔征さんの場合は父親の創意工夫によって自宅そのものが練習場所になっていたのです。
「毎日投げ込んでいた」という習慣が、自然と投球フォームの固定化と球の質の向上につながっていったと考えられます。
特に小学生の頃は毎日継続的に投げることが、肩・肘の強化と投球感覚の習得に非常に効果的です。
手作りのネット一つに込められた父親の「息子に野球をやらせたい」という強い思いと、その思いに応えて毎日練習を続けた翔征さんの努力が、プロ野球選手という夢への第一歩でした。
野球専用のグラウンドや施設がなくても、身近なものを工夫して最大限の練習環境を作り出す父親の発想力は、地方出身の多くのアスリートの親御さんに共通する逞しさを感じさせます。
走り込みに車で伴走した両親の熱血サポート
戸郷翔征さんの幼少期のエピソードの中でも特に印象的なのが、走り込みの際に両親が後ろから車で伴走したという話です。
小学生の翔征さんが体力強化のために行う走り込みに、父・健治さんや母・ヒトミさんが車で後ろからゆっくりとついていき、ペース配分や休憩のタイミングを見守ったといいます。
これは単なる付き添いではなく、子供が一人で長距離を走る際の安全確保と、精神的な支えという2つの意味を持つ取り組みです。
「一人でも走り続けられる」という経験は、スポーツにおけるメンタルの強さを育てるうえで非常に重要です。
一人で長い距離を走り切る経験を積んだことで、翔征さんは小学生のうちから自分を律する強い精神を身につけていったのでしょう。
また、両親が傍についてくれているという安心感が、厳しい練習を続けるためのモチベーションにもなっていたはずです。
仕事の合間を縫って伴走し続けた父・健治さんと、それを支えた母・ヒトミさんの献身的なサポートは、今日の戸郷翔征という選手を支える見えない礎です。
アーム式フォームを矯正しなかった理由と決断
戸郷翔征さんの代名詞ともいえる独特なアーム式投球フォームは、肘を高く上げずに腕を後ろに引いてから振り下ろすスタイルで、一般的な指導では「ケガをしやすい」として矯正対象になることが多いフォームです。
実際、ドラフトで評価が低かった(6位指名)理由の一つも、このフォームへの懸念があったといわれています。
しかし、父・健治さんは翔征さんのこのフォームを一切矯正しませんでした。
「矯正してケガして、野球人生が終わるのはかわいそう。そのままやって、ダメになる方がいい」という方針を貫いたのです。
この判断は、中学時代の監督も同様で、「中学生は自分の体に合った投げやすい投げ方が一番」という考えのもと、フォームを修正しなかったといいます。
実際、翔征さんは「僕は『この投げ方で投げたい』というのを貫き通して、今ここまできました」と語っており、自分のフォームへの絶対的な自信を持ち続けていることがわかります。
父親と指導者の「不干渉」という判断が奏功し、翔征さんは独自のフォームから繰り出す速球と変化球でプロの世界で成功しました。
「理想的なフォームは人によって異なる」ということを実証した戸郷翔征さんの事例は、指導者や親御さんにとって重要な示唆を与えてくれる話ではないでしょうか。
中学進学前に野球環境を求めて引っ越した決断
父・健治さんが行った熱血教育の中でも最も大胆なものの一つが、翔征さんの中学進学前に一家で引っ越しをしたことです。
本来、翔征さんが進む予定だった学区の中学校は、野球部員が100人以上在籍するマンモス校でした。
部員が100人を超えると、当然ながら試合に出場できる選手は限られ、特に投手として成長するための経験を積む機会が大幅に減ってしまいます。
健治さんはその状況を「普通の環境で野球をやらせてあげたい」と考え、小学6年生のうちに約10分ほど離れた場所に引っ越す決断を下しました。
この引っ越しにより、翔征さんは少人数の野球部でしっかりと試合経験を積める環境を得ることができました。
結果として、翔征さんは都城市立妻ケ丘中学校の野球部でポジションをしっかりと確保し、中学2年生から投手へ転向して力を磨くことができました。
息子の野球のために住む場所まで変えるという判断は、一般的にはなかなかできないことです。
それだけ本気で息子の野球と向き合い、最良の環境を整えようとしてきた父・健治さんの覚悟が、この引っ越しという行動に凝縮されています。
母親・ヒトミさんの職業と名前の由来
父・健治さんと同様に、母・ヒトミさんの存在も戸郷翔征さんの成長において非常に重要な役割を果たしています。
ヒトミさんは、看護師として日々の仕事をこなしながら、息子の体づくりや精神面のサポートを続けてきた「縁の下の力持ち」的な存在です。
| 名前 | ヒトミさん |
|---|---|
| 職業 | 看護師 |
| スポーツ歴 | ママさんバレーボール経験者 |
| 特技 | 翔征という名前の命名者 |
看護師として家族の健康を支えたヒトミさん
ヒトミさんの職業は看護師です。
医療の現場で患者さんの健康を日々ケアする専門職についているヒトミさんは、家庭においても家族の健康管理に細やかな目を配ってきたはずです。
プロ野球選手の体は最大の資本であり、幼少期からの食事・睡眠・体のケアが長期的な選手生命を支えます。
看護師という専門知識を持つ母親のもとで育った翔征さんは、体のケアという面で恵まれた環境にあったといえます。
また、ヒトミさんは翔征さんの幼少期に水泳の習い事にも連れて行っており、バランスよく体を鍛える機会を作っていました。
看護師として毎日の激務をこなしながら、息子の体づくりや練習のサポートに奔走してきたヒトミさんの姿は、父・健治さんとともに4人家族を支えた大きな柱でした。
都城市内のインタビューで「人がいいところ」と地元・都城を表現したヒトミさんの言葉からは、地元を愛する温かな人柄が伝わってきます。
バレーボール経験が息子の体づくりに貢献
ヒトミさんはママさんバレーボールをやっており、翔征さんが子供の頃には、体づくりの一環として息子を一緒にバレーボールの練習に連れて行っていたといいます。
バレーボールは、スパイクやレシーブの動作を通じて肩甲骨の柔軟性と肩関節の可動域を大きく高める効果があるスポーツです。
翔征さん自身も後のインタビューで、「水泳やバレーボールをやったことが肩甲骨や肩の可動域が広がったことに繋がっている」と語っており、母のバレーボール体験が自分の体に影響を与えたことを認識しています。
野球に特化した練習だけでなく、さまざまなスポーツを通じて体の基礎を作るという考え方は、現代のスポーツ科学でも重視される「マルチスポーツ」の発想に通じるものがあります。
ヒトミさんが自身の趣味であるバレーボールに息子を連れていくという何気ない行動が、翔征さんの肩の強さと柔軟性という財産につながっているとすれば、それは母親ならではの気づきが生んだ育成の知恵といえるでしょう。
身長187cmの長身から繰り出されるアーム式フォームのダイナミックなピッチングの背景には、こうした多様なスポーツ経験が活きているのです。
「翔征」という名前に込められた深い意味
戸郷翔征さんの名前「翔征」の命名者は、母・ヒトミさんです。
この名前には、単純な音の響きや漢字の意味以上の、深いエピソードが込められています。
ヒトミさんは、2歳年上の兄・悠大さんの名前から漢字を借りて翔征の名前を作ったのです。
兄の「悠大(ゆうだい)」という名前から「悠」と「翔」という字を抜き出し、この2文字を合わせると「悠翔(ゆうしょう)」になります。
「好きなことをやって、その中で1番を目指してほしい」という母の願いを込めて、兄弟の絆を名前で結んだのです。
兄・悠大さんの名前の字が弟・翔征の名前に生きているという点で、2人は名前の上でも深くつながっているわけです。
翔(かける)という字は高い空を羽ばたくイメージを持ち、征(ゆく)という字は前進し続けるイメージを持ちます。
「どこまでも翔び、前へ征け」という意味を重ねるなら、戸郷翔征という名前そのものが、今の彼の生き方を表しているようにも感じられます。
ヒトミさんの命名のセンスと、兄弟への愛情が詰まったこの名前のエピソードは、戸郷家の温かな家族の絆を象徴するものです。
WBCの快挙を見て「やり切った」と語った母の声
2023年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で侍ジャパンとして活躍する翔征さんの姿を見て、母・ヒトミさんはスポーツ報知の取材にこう答えています。
「やり切った、やりよったな!」
そして「感動しました」という言葉を添えたといいます。
「やりよったな」という宮崎県の方言まじりの言葉が、ヒトミさんの喜びと誇りの大きさを感じさせます。
幼い頃から息子の練習を支え、水泳やバレーボールに連れて行き、厳しい練習に伴走してきた母親だからこそ、WBCという世界の舞台での息子の活躍は格別の感動だったはずです。
看護師として多忙な仕事の中でも息子の成長を見守り続けてきたヒトミさんが「感動しました」と語った言葉は、20年以上にわたる子育ての集大成としての重みを持っています。
翔征さんの活躍の陰には、こうした母親の静かで力強いサポートがあったのです。
都城市という土地で、家族4人が一丸となって翔征さんを支えてきたその姿勢は、母親というよりもチームメートのような強い絆を感じさせます。
ヒトミさんの献身的なサポートなくして、今日のジャイアンツのエース・戸郷翔征は存在しなかったといっても過言ではないでしょう。
実家がある宮崎県都城市の環境と自然
都城市は、戸郷翔征さんが幼少期から高校卒業まで過ごした故郷であり、現在も実家があるとされる地域です。
自然豊かな環境と地域全体に根付いた野球文化が、翔征さんの感性を磨き、アスリートとしての土台を作りました。
| 所在地 | 宮崎県(南部) |
|---|---|
| 人口規模 | 宮崎県内で宮崎市に次いで第2位 |
| 地形 | 山に囲まれた盆地(都城盆地) |
| 隣接県 | 鹿児島県と隣接 |
| 代表的な場所 | 沖水川、矢ケ渕公園(かっぱ伝説) |
| 特色 | 野球が盛んな地域・春季キャンプが近い |
宮崎県第2の都市・都城市とはどんな場所か
戸郷翔征さんが育った都城市は、宮崎県南部に位置する、県内で2番目に人口が多い都市です。
鹿児島県に隣接する都城市は、宮崎市とは異なる独特の文化圏を持ち、農業と商業が共存する活気ある地域です。
人口規模でいえば宮崎市に次ぐ第2の都市であるものの、都城盆地を中心とした地形のため、市内のあちこちに田園風景や豊かな自然が広がっています。
都城市は焼酎の生産地として全国的に知られており、「都城焼酎」は地域の特産品の一つです。
また、プロ野球の春季キャンプが行われる宮崎市へのアクセスも比較的よく、幼い頃から一流のプロ野球選手の姿を身近に感じられる環境にあります。
母・ヒトミさんが「人がいいところ」と語っているように、都城市は温かいコミュニティと穏やかな環境が魅力の地域です。
翔征さんが後に「みやこんじょ大使」に選ばれるほど地元を愛しているのも、こうした都城市の雰囲気が育んだ故郷愛の表れといえます。
山に囲まれた盆地の自然豊かな環境
都城市の地形的な特徴は、四方を山に囲まれた盆地であることです。
この地形のおかげで、市内には川や山、公園など自然豊かな場所が多く、子供が思い切り遊べる環境が整っています。
翔征さんも幼少期に「ずっと走り回ってましたね。ちょっと田舎ではあるので走って山を登ったり、釣りが好きなので、1人で釣りをしたり、友達と釣りに行ってそのままの勢いで泳いだりとかもしてましたかね」とインタビューで振り返っています。
山を走り回り、川で釣りをして、そのまま泳ぐという野性的な遊びの中で、翔征さんは知らず知らずのうちに全身の筋力とバランス感覚を養っていたのです。
現代の子供は室内での活動が増えていますが、翔征さんが育った頃の都城市では、外での遊びが自然と体づくりにつながっていました。
山を登ることは足腰の強化に、川を泳ぐことは全身の持久力に、釣りは集中力と忍耐力の涵養につながります。
都城市の豊かな自然環境が、翔征さんのアスリートとしての基礎体力を知らず知らずのうちに高めていたといっても過言ではありません。
沖水川とかっぱ伝説が息づく矢ケ渕公園
都城市内を流れる沖水川は、翔征さんにとって幼少期の遊び場だった場所の一つです。
沖水川にはめがね橋がかかり、その近くには矢ケ渕公園があります。
この矢ケ渕公園には「かっぱ伝説」が残っており、地元の人々に親しまれている場所です。
翔征さんは練習後のアイシングを兼ねて、この公園付近で泳いでいたというエピソードも残っています。
川で練習の疲れを癒しながら自然と触れ合うという生活は、都城市という場所でなければ経験できない貴重なものです。
プロになってからも、地元・都城に帰省するたびにこうした風景に触れることが、翔征さんの心の拠り所になっているのではないでしょうか。
かっぱ伝説のある矢ケ渕公園、沖水川のめがね橋、山々に囲まれた盆地の景色——これらが翔征さんの原風景であり、投手として迷ったときに立ち返る場所なのかもしれません。
幼少期の自然体験が育んだ運動能力の基礎
翔征さんの幼少期を振り返ると、野球の練習だけでなく、自然の中での多様な活動が運動能力の基礎を作っていたことがわかります。
カブトムシ捕り、川での魚釣り、山登り、川での水泳——これらはすべて、体全体を使った全身運動です。
カブトムシを捕まえるために木を揺らす動作は上半身と体幹を使い、川での水泳は全身の持久力と柔軟性を高めます。
山を駆け上がることは心肺機能と脚力の強化につながり、釣りは長時間同じ姿勢を保つための体幹の安定と精神的な集中力を培います。
これらの自然体験が、野球の練習で培った技術と融合して、高い身体能力を持つアスリートへの成長を後押ししました。
専用のジムやトレーニング施設がなくても、自然の中での遊びが最高のトレーニングになりうることを、翔征さんの生い立ちは証明しています。
都城市の豊かな自然環境は、戸郷翔征というプロ野球選手を育てた見えない学校だったのです。
翔征さんにとって都城市は単なる出身地ではなく、「自分を作った場所」としての深い意味を持つ土地です。
プロ野球選手として成功した現在も、毎年冬には都城に戻り、母校や地元の風景の中でリフレッシュしているといいます。
都城市の豊かな自然環境と温かいコミュニティが、戸郷翔征という選手の精神的な支柱になっているのです。
三股町立三股西小学校と野球との出会い
戸郷翔征さんの故郷・三股町は、都城市に隣接する宮崎県北諸県郡の町です。
三股町立三股西小学校での6年間が、翔征さんの野球人生の実質的なスタートラインとなりました。
地元公立校・三股西小学校での幼少期
翔征さんが通った三股町立三股西小学校は、地元の子供たちが集まる公立小学校です。
宮崎県北諸県郡三股町という地域は、都城市のすぐ隣に位置しており、都城市内の中学校や高校に進学する子供も多い地域です。
翔征さんは幼稚園の頃から水泳を習っており、体を動かすことへの親しみは小学校入学前から育まれていました。
母・ヒトミさんのバレーボール練習についていったことも多く、幼い翔征さんにとって「スポーツをする大人の姿」は日常的に目にするものでした。
父・健治さんが野球経験者であることも加わり、翔征さんは物心ついた頃からスポーツに囲まれた環境で育ちました。
三股西小学校での6年間は、野球の技術を磨くとともに、自然の中で走り回り、釣りをし、山を登るという多様な経験を通じて、アスリートとしての土台が形成された重要な時期です。
三股ブルースカイで始めた野球の日々
翔征さんが小学1年生のときに入団した軟式野球チームが「三股ブルースカイ」です。
父・健治さんが「男の子なら野球」と決めていたこともあり、小学校入学と同時に自然な流れで野球チームへの入団が実現しました。
三股ブルースカイは地元の少年野球チームで、翔征さんはここで野球の基礎を学びました。
小学校時代のポジションは主にキャッチャーで、投手ではなかったという点は意外かもしれません。
しかしキャッチャーとして経験した配球の考え方は、後に投手に転向してから大きく役立ちます。
「配球を考えながら投げることができていた」という翔征さんの言葉は、キャッチャー経験があったからこそ語れるものです。
三股ブルースカイでの野球を通じて、翔征さんはチームスポーツの楽しさと、試合で勝つために考える大切さを学んでいきました。
地元のチームで仲間とともに汗を流した小学生時代の思い出は、翔征さんの野球人生の原点として、今も心の中に残っているはずです。
キャッチャーとして磨いた野球センス
小学校時代にキャッチャーとしてプレーしていた翔征さんは、後に投手へ転向した際もキャッチャーとしての視点を活かし続けました。
都城市立妻ケ丘中学校でのインタビューで翔征さんは「配球を考えながらやってましたね。自分の投げたい球をよく投げられてました」と振り返っています。
投手がキャッチャーの目線を持つことは、バッターを翻弄するための大きな武器になります。
どこに、どの球種を、どのタイミングで投げるかという配球の読みは、野球の醍醐味でもあり、最も難しい部分でもあります。
翔征さんが小学生のうちからキャッチャーとして配球を考える習慣を身につけていたことが、投手転向後の急速な成長につながったとも考えられます。
6球種の変化球を自在に操り、打者を打ち取っていく翔征さんのピッチングの根底には、小学生時代のキャッチャー経験が生きているのです。
「小学生のポジションがキャッチャーだった」という一見些細なことが、後のプロ野球選手としての武器につながっているという事実は、スポーツ育成の面白さを感じさせます。
水泳・バレーボールが育てた肩甲骨の可動域
父・健治さんが「小さい頃から水泳やバレーボールなど、いろいろなスポーツをさせた」と語っているように、翔征さんの小学生時代は野球以外のスポーツも積極的に行っていました。
幼稚園から始めた水泳は、全身の筋肉を均等に使い、肩関節の柔軟性を高める効果があります。
また、母・ヒトミさんが行っていたバレーボールの練習についていき、時には試合にも出場させてもらったという経験も、肩甲骨の可動域を広げる大きな要因になりました。
翔征さん自身も「水泳やバレーボールをやったことが肩甲骨や肩の可動域が広がったことにつながっている」とインタビューで認めています。
野球投手にとって肩甲骨の可動域は非常に重要で、可動域が広いほど力強いピッチングが可能になり、肩や肘への負担も分散されます。
専門家の指導のもとで肩甲骨のストレッチを行うのではなく、幼い頃の遊びと多様なスポーツ体験を通じて自然と可動域が広がった翔征さんの体は、まさに「育ちから生まれた体」といえます。
三股西小学校で野球に打ち込みながら、水泳やバレーボールも並行して続けた幼少期のバランスのとれた体験が、プロ野球選手に必要な体の基礎を作り上げたのです。
三股町立三股西小学校での6年間で積み重ねた野球経験と多様なスポーツ体験は、翔征さんが中学・高校でさらに大きく飛躍するための強固な基盤となりました。
幼少期のバランスのとれた運動経験こそが、現在の187cmの長身から繰り出す力強いアーム式ピッチングの礎だったのです。
妻ケ丘中学校での野球修業と投手転向
都城市立妻ケ丘中学校での3年間は、戸郷翔征さんの野球人生において大きな転換点となりました。
キャッチャーから投手への転向、そして当時の「問題児」と呼ばれた側面まで、翔征さんの中学時代は多彩なエピソードに彩られています。
野球部員100人のマンモス校を避けた引っ越し
翔征さんが入学する予定だった学区の中学校は、野球部員が100人を超えるマンモス校でした。
100人規模の野球部では、試合に出られる選手は一握りです。
特に投手という特殊なポジションでは、定期的に登板機会を得ないと技術が磨けません。
父・健治さんはそのような状況を「普通の環境で野球をやらせてあげたい」と考え、家族で相談のうえ、翔征さんが小学6年生のときに学区を変えるために引っ越すことを決断しました。
新しい住居は元の自宅から約10分ほど離れた場所で、距離的には大きくないものの、学区が変わることで少人数の野球部がある妻ケ丘中学校に通えるようになりました。
この引っ越しがなければ、翔征さんはマンモス校で埋もれてしまい、十分な出場機会を得られなかった可能性も十分あります。
息子の野球環境のために住む場所まで変えた父・健治さんと家族の覚悟が、翔征さんの中学時代の充実した野球修業を可能にしたのです。
中学2年で訪れた投手転向の転機
都城市立妻ケ丘中学校に入学した翔征さんは、1年生の時はキャッチャーとしてプレーを続けました。
しかし中学2年生になって、大きな転機が訪れます。
投手へのコンバートです。
投手転向後の翔征さんは、コントロールの練習に重点を置き、「1球1球意識をして丁寧に投げ込んでいた」といいます。
小学生時代のキャッチャー経験で培った「打者の心理を読む力」と「配球の考え方」が、投手としての戦略的な投球に活かされていきました。
また、投手転向した時点で、翔征さんのフォームはすでに現在と同じアーム式でした。
当時の監督は「中学生は自分の体に合った投げやすい投げ方が一番」という考えのもとでフォームを矯正せず、父・健治さんも同じ方針だったため、翔征さんは自分のフォームを貫くことができました。
中学2年で投手に転向してから急速に頭角を現し、高校の強豪校から複数の勧誘を受けるほどの素質を評価されるようになりました。
ダルビッシュ有への憧れと自己流の変化球習得
中学時代の翔征さんが最も憧れた投手は、ダルビッシュ有さんです。
多彩な変化球と圧倒的な球速を誇るダルビッシュさんの投球スタイルは、投手を目指す多くの少年の憧れの的でした。
翔征さんはできる限り多くの投手の映像を見て研究するよう心がけており、ダルビッシュさんの投球フォームや変化球の握りを研究していたといいます。
特筆すべきは、変化球の習得もすべて独学だったという点です。
後に「変化球の名前は後から知った感じです」と語っているように、翔征さんは体の感覚で変化球を習得し、後から正式な名称を知ったというエピソードが残っています。
感覚先行、名称後付けという独特の学習プロセスが、翔征さんの変化球の「独自性」を生み出した可能性があります。
教科書通りに覚えた変化球ではなく、自分の感覚で習得した変化球だからこそ、打者が対応しにくい独特の軌道を描くのかもしれません。
「受け入れる高校がなかった」問題児時代の真相
ウーマンエキサイトの記事によれば、中学時代の戸郷翔征さんの素行は「周囲が手を焼くほど」のもので、進学先の高校を探すのさえ困難だったとされています。
「受け入れる高校がなかった」とまで言われるほどの問題児として知られていたという事実は、現在のジャイアンツのエース・戸郷翔征さんのイメージからは想像しにくいかもしれません。
それでも、野球の才能だけは本物でした。
中学時代は全国大会への出場などの華々しい実績こそありませんでしたが、体の大きさと素質の高さは周囲の指導者たちの目にとまり、高校野球の強豪校から複数の勧誘を受けています。
翔征さん自身も、子供の頃からプロ野球選手になることが将来の夢でしたが、恥ずかしくて中学生の頃は口にできず、「パイロットになりたい」「漁師になりたい」と答えていたといいます。
「パイロットや漁師」という夢を語りながら、内心では「プロ野球選手になる」という夢を胸に秘めていた中学生の翔征さん——その内気さと情熱のギャップが、後のプロとしての成長物語をより魅力的にしているのではないでしょうか。
問題児と呼ばれた少年が、やがて球界を代表するエースへと成長するという軌跡は、スポーツの持つ不思議な力を感じさせます。
戸郷翔征の実家と家族が証明する4人の絆
- 兄・悠大さんの現在と山本由伸との縁
- 聖心ウルスラ学園高校と甲子園への道
- 独学で磨いた変化球とフォームへの信念
- ドラフト6位からジャイアンツエースへ
- WBC侍ジャパンと家族が見つめた栄光
- みやこんじょ大使と故郷・都城への愛
兄・悠大さんの現在と山本由伸との縁
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戸郷翔征さんの兄・悠大さんは、弟に劣らず興味深い経歴を持つ人物です。
弟が野球でプロの道を歩む一方、悠大さんは別の道を選び、現在も別の形で社会に貢献しています。
| 名前 | 戸郷悠大(とごう ゆうだい) |
|---|---|
| 2026年04月22日現在の年齢 | 約28歳(翔征の2歳年上) |
| 出身高校 | 宮崎県立都城高校(山本由伸と同学年) |
| 高校時代の部活 | ラグビー部 |
| 現在の職業 | 自衛官 |
| 中学時代 | ボーイズリーグで野球をプレー |
悠大さんのプロフィールと少年時代の野球
翔征さんより2歳年上の兄・悠大さんも、少年時代は野球少年でした。
幼い頃から翔征さんとともに野球に親しみ、父・健治さんの野球指導のもとで育ったという点では2人は共通しています。
悠大さんは中学時代にボーイズリーグで野球を続けており、弟の翔征さんが野球の素質を開花させていく様子を間近で見守ってきました。
翔征さんが捕手から投手に転向した中学生の頃、悠大さんは自室で黙々とシャドーピッチングを繰り返す弟の姿を目にしていたといいます。
「陰で努力するタイプ」——悠大さんが弟を評した言葉は、表に出さずに地道に努力を積み重ねる翔征さんの本質を鋭く捉えています。
目立たず、地道に努力するスタイルは、華やかなプロ野球の世界では見えにくいですが、それこそが翔征さんの強さの源泉だといえるでしょう。
都城高校でラグビー部に転向した理由
高校進学にあたって、悠大さんが選んだのは野球の道ではなく、ラグビーでした。
宮崎県立都城高校のラグビー部に入部した悠大さんは、野球とは違う球技の世界で青春を過ごすことになります。
なぜ野球からラグビーに転向したのかについては詳しい情報はありませんが、サンスポの記事によれば「弟の将来性にはかなわないと悟った」という一面もあったようです。
弟・翔征さんが高校1年生の遠投記録会で117メートルというずば抜けた数字を叩き出したとき、悠大さんは「別格なんだと思った」と感嘆したといいます。
兄として弟の才能を正直に認め、自分の道を切り開いていった悠大さんの姿勢は、潔さと芯の強さを感じさせます。
野球からラグビーという異なるスポーツへの転向は、新たな挑戦への意欲の表れであり、弟への「才能は認める、しかし自分は自分の道を行く」という静かなメッセージでもあったのではないでしょうか。
山本由伸との同期という奇縁
悠大さんが在籍した宮崎県立都城高校には、同じ学年にとても有名な球児がいました。
現在もMLBのロサンゼルス・ドジャースで活躍する、山本由伸選手です。
悠大さんと山本由伸さんは都城高校の同学年(同級生)であり、地元・宮崎でのつながりを持つ関係です。
2023年のWBCを前に、悠大さんは宮崎で行われたオリックスと巨人の春季キャンプに足を運び、WBCを控えた山本さんと弟・翔征さんを激励しました。
「由伸に『頑張れよ』と言ったら『ありがとう』と言われました。弟とともに力を出し尽くしてほしい」と悠大さんは語っています。
高校の同級生だった友人が、弟のWBC日本代表チームのエース格投手と同じマウンドに立つという、なんとも不思議な縁です。
都城高校という同じ学校で青春を過ごした山本さんと悠大さん、そして悠大さんの弟・翔征さんが侍ジャパンで共闘するという展開は、都城市という地方都市から生まれた野球エリートたちの物語として印象に残ります。
現在は自衛官として活躍する悠大さん
現在、悠大さんは自衛官として活躍しています。
日本の防衛を担う自衛官という職業は、強い責任感と体力・精神力が求められる仕事です。
野球少年からラグビー部員を経て自衛官へという悠大さんのキャリアは、スポーツを通じて培った体力と精神力が基盤になっているのではないでしょうか。
弟・翔征さんが野球でプロとしての道を歩む傍ら、悠大さんは国家の安全という別の形で社会に貢献しています。
WBCで翔征さんが中国戦に登板した際、悠大さんは「すごく大人になっているなと。抑えている姿を見て元気をもらいました」と弟の成長を喜びながらも、大きな誇りを感じていたはずです。
ともに宮崎・都城で育ち、別々の道でそれぞれの「エース」として活躍する2人の兄弟の姿は、戸郷家の実家が育んだ絆の強さを感じさせてくれます。
2023年のWBCを機に、兄・悠大さんと弟・翔征さんという戸郷家兄弟の話題が広く知られるようになりました。
翔征さんが世界の舞台で躍動する姿を、自衛官として別の形で社会に貢献する悠大さんが誇らしく見守るという構図は、都城の実家で育まれた家族の絆の強さを感じさせます。
野球とラグビー、プロ野球選手と自衛官——まったく異なる道を歩みながらも、2人の間には都城・宮崎で共に育ったという不変の絆があります。
聖心ウルスラ学園高校と甲子園への道
地元の宮崎から甲子園に出場したいという夢を胸に、戸郷翔征さんが選んだ高校が聖心ウルスラ学園高校です。
宮崎県延岡市に本校を置くカトリック系の私立高校で、硬式野球部が強豪として知られるこの学校が、翔征さんをプロ野球の道へと導く舞台となりました。
| 学校名 | 聖心ウルスラ学園高校 |
|---|---|
| 所在地 | 宮崎県延岡市 |
| 創立 | 1955年(カトリック系ミッションスクール) |
| 種別 | 私立・共学 |
| 偏差値 | 41〜49(コースによって異なる) |
| 野球部 | 県内強豪・甲子園出場実績あり |
| コース | 特進・普通・看護の3コース(5年制看護以外が対象) |
カトリック系の名門・聖心ウルスラ学園高校
聖心ウルスラ学園高校は、1955年に開校したカトリック系のミッションスクールです。
宗教的な精神に基づく教育理念と、部活動の充実という2つの柱が特徴の学校で、特に硬式野球部は県内でも有数の強豪として知られています。
偏差値は41〜49程度(コースによって異なる)で、翔征さんが在籍したのは看護コース(5年制)以外のコースと考えられます。
同校は全国各地に同名の系列校を持つカトリック系学校群の一員であり、礼節と信仰心を大切にする校風のもとで多くの生徒が育ってきました。
翔征さんはいくつかの野球強豪校から勧誘を受けていましたが、「地元の宮崎から甲子園に出たい」という強い思いからこの高校を選択しました。
県外の野球強豪校に進む選手が多い中で、あえて地元の宮崎県内の高校を選んだ翔征さんの決断は、故郷への愛着と強い意志を感じさせます。
地元から甲子園へという夢を選んだ理由
野球強豪校から複数の勧誘を受けながらも、翔征さんが聖心ウルスラ学園高校を選んだのは「地元で甲子園に出たい」という一心からでした。
宮崎県という場所から甲子園を目指すというのは、全国の強豪が集まる甲子園の舞台を考えると決して容易ではありません。
それでも翔征さんは「自分の力で宮崎から甲子園へ」という夢にこだわり、地元の高校を選びました。
この選択の背景には、宮崎という土地への強い愛着と、「地元から勝ち上がる」という反骨心があったのかもしれません。
後に「みやこんじょ大使」として宮崎をPRすることになる翔征さんのルーツには、この高校選択の段階からすでに故郷への強い思いが刻まれていたのです。
宮崎県内の高校を選んだことで、翔征さんは家族のサポートを受けながら高校野球の3年間を過ごすことができ、精神的な安定を保ちながら投手として成長できたという側面もあります。
1年生の6月から試合に出場し急成長
聖心ウルスラ学園高校に入学した翔征さんは、食事を含めた体づくりに専念しながら、1年生の6月から早くも対外試合に出場を始めました。
1年生の秋にはベンチ入りを果たし、冬には体力強化のためのトレーニングを強化しながら食事面での厳しい指導も受けました。
その結果、体は大きく変化し、ピッチングが見違えるように変わったといいます。
1年生の遠投記録会では117メートルというずば抜けた数字を叩き出し、兄・悠大さんをはじめ周囲を驚かせました。
高校2年生からはチームのエースとして活躍し、ノーシードから県大会を勝ち抜いて、2年生の夏の甲子園出場を実現させます。
わずか1年余りで急速に成長した翔征さんの軌跡は、幼少期からの積み重ねと、聖心ウルスラ学園での本格的な体づくりが融合した結果です。
2年夏の甲子園出場と3年時の挫折
2年生の夏、翔征さんはチームをノーシードから甲子園へと導きます。
都道府県大会を勝ち抜いて出場した甲子園では、2回戦で聖光学院高校(福島県)に敗れましたが、全国の舞台を経験したことが翔征さんにとって大きな転機になりました。
「もう一度甲子園に来たい」という強い思いが芽生え、3年生に向けてより一層ストイックに練習に取り組むようになったといいます。
与えられたメニューに加えて、新しい球種の習得にも自発的に取り組み、独学で多彩な変化球を磨いていきました。
しかし3年生の夏は県大会8強で敗退し、2度目の甲子園は果たせませんでした。
それでも3年生の夏、宮崎県選抜の一員としてU-18高校ジャパンと練習試合を行った際に好投を見せており、この活躍がプロのスカウトの目に留まりました。
2018年10月のドラフト会議で、読売ジャイアンツから6位指名を受け、プロ野球選手としての新たな章が始まることになります。
聖心ウルスラ学園高校での3年間は、翔征さんが野球選手として急成長した時期であると同時に、人間としても大きく成熟した時期でした。
地元の高校を選んで甲子園に出場するという夢を実現し、プロのスカウトに認められるまでに至った軌跡は、翔征さんの努力と才能の結晶です。
都城市の実家を拠点に、延岡の高校で野球を磨いた3年間が、翔征さんをジャイアンツのエースへと導く礎になりました。
独学で磨いた変化球とフォームへの信念
戸郷翔征さんのピッチングスタイルの最大の特徴は、独学で習得した6球種の変化球と、独特なアーム式フォームの組み合わせです。
誰かに教えてもらったのではなく、自分の感覚で習得した球種と、矯正を断固拒否したフォームが、翔征さんを「攻略困難な投手」にしています。
6球種の変化球を全て独学で習得した才能
翔征さんが操る変化球は6球種にのぼりますが、これらはすべて独学で習得したものです。
「(変化球の)名前は後から知った感じです」という言葉通り、翔征さんは変化球の理論や名称から入ったのではなく、自分の手の感覚から自然と変化球を習得し、後からその名前を知ったのです。
一般的な投手は、コーチや先輩から変化球の握り方と投げ方を教わり、繰り返し練習することで習得します。
しかし翔征さんの場合は、自分の指の感覚と球の動きを観察しながら、試行錯誤によって変化球を身につけていきました。
この「感覚先行」の習得スタイルが、翔征さんの変化球に独自の特徴をもたらしている可能性があります。
教科書通りに教えられた変化球は打者が対応しやすい軌道になりがちですが、自己流で習得した変化球は打者が予測しにくい独特の曲がり方をすることがあるのです。
ダルビッシュ有さんへの憧れを持ちながら、多くの投手の映像を研究し、自分の体に合った球種を独自に開発してきた翔征さんの探求心は、プロになってからも続いています。
アーム式フォームへの批判と自分を貫く信念
アーム式投球フォームとは、通常の投手よりも肘が下がり、腕を後方に大きく引いてから振り下ろすスタイルのことです。
この投げ方は肩や肘への負担が大きく、プロの指導者の間では「ケガをしやすい」として矯正対象になることが多いフォームです。
実際、2019年のドラフトで翔征さんの評価が6位にとどまった理由の一つに、このフォームへの懸念があったとされています。
プロ入り後も、翔征さんのフォームを矯正しようとした指導者がいたことはほぼ確実ですが、翔征さんはアドバイスを受け止めながらも「すぐに元のフォームに戻った」といいます。
2021年の文春インタビューで記者に「投げ方が変わった」と指摘されたとき、翔征さんはこう答えています。
「大きく変えたという意識はないんです。体重が増えて、球速も上がって、投げていくうちに自分の投げ方が見つかったんじゃないかなと」
体が成長するにつれて自然とフォームが進化していくという感覚的な言葉は、翔征さんが自分の体と投球フォームを深いレベルで理解していることを示しています。
指導者たちが矯正を断念した理由
翔征さんのフォームを矯正しようとした指導者が複数いたにもかかわらず、その試みがことごとく失敗に終わったのはなぜでしょうか。
最大の理由は、翔征さんが「このフォームで投げたい」という強固な信念を持っていたためです。
「僕は『この投げ方で投げたい』というのを貫き通して、今ここまできました」という言葉は、自分のフォームへの絶対的な自信と、外部の意見に流されない強さを示しています。
また、父・健治さんが「矯正してケガして野球人生が終わるより、そのままでダメになる方がいい」と早い段階で決断し、フォームへの不干渉方針を打ち出していたことも大きく影響しています。
中学時代の監督も、高校の指導者も、父親の方針と本人の意志が一致していたことで、矯正に踏み切ることができなかったのでしょう。
結果として、誰も矯正しなかったことで翔征さんの投球フォームはそのまま保たれ、今日のエースへの成長につながりました。
「この投げ方を貫き通して今ここまできた」という言葉
戸郷翔征さんが自分のフォームについて語った言葉の中で最も印象的なのが「この投げ方で投げたいを貫き通して、今ここまできました」というものです。
これは単なる投球フォームの話を超えて、人生における「自分を信じる力」の大切さを語った言葉として受け取れます。
周囲の意見を聞きながらも、最終的には自分の感覚と判断を信じて動く——この姿勢は、野球に限らずあらゆる分野で成功するために必要な資質です。
問題児と呼ばれた中学時代から、ドラフト下位指名という評価、そしてフォームへの批判と矯正圧力。
翔征さんはそのたびに「自分の道を行く」という選択をし続けてきました。
その積み重ねが、今日のジャイアンツのエースという結果として実を結んでいるのです。
自分の投げ方を信じ、独学で磨いた6球種の変化球を武器に、プロの打者を次々と打ち取っていく戸郷翔征さんの姿は、「自分を貫く」ことの力強さを体現しています。
幼少期に父が作った投球ネットで毎日投げ込み、中学・高校で独学で変化球を習得し、プロでもそのスタイルを貫いた翔征さんの「自分を信じる力」は、実家での教育によって育まれた最大の財産といえます。
自己流で磨いた変化球とアーム式フォームへの強い信念——これらはすべて、都城の実家で父・健治さんとともに「自分のスタイルを貫く」ことを学んだ日々が生んだ財産です。
ドラフト6位からジャイアンツエースへ
2018年のドラフト会議で読売ジャイアンツから6位指名を受けた戸郷翔征さん。
低評価からのスタートだったにもかかわらず、プロ入り後は目覚ましい成長を見せ、チームのエースの座を確立しました。
| 年度 | 勝敗 | 主な成績・出来事 |
|---|---|---|
| 2019年(1年目) | 1勝 | 高卒新人として初勝利(DeNA戦)チーム17年ぶりの高卒新人勝利 |
| 2020年(2年目) | 9勝 | 先発ローテーション定着・急成長 |
| 2021年(3年目) | 活躍継続 | エースとしての地位確立 |
| 2022年(4年目) | 12勝 | 初の二桁勝利を達成・エース確立 |
| 2023年(5年目) | WBC参加 | 侍ジャパン選出・世界の舞台で活躍 |
なぜドラフト6位だったのか?評価が低かった理由
2018年のドラフト会議で、翔征さんはジャイアンツから6位という下位での指名を受けました。
高校時代の実績(県大会8強、2年時の甲子園出場)を考えると、6位指名は評価が低いように思えます。
評価が低かった理由として最も多く挙げられるのが、独特なアーム式の投球フォームです。
プロのスカウトの間では、このフォームは「肩や肘を痛めやすく、長くプロで活躍できるか見通しが立ちにくい」という懸念材料として見られていました。
また、宮崎県という野球激戦区ではない地域の高校出身という点も、全国的な知名度という意味では不利に働いたかもしれません。
しかし翔征さん自身は、この6位という評価を「自分への評価はそのくらいだったんだ」と受け止めつつも、内心では必ずその評価を覆すという気持ちを持っていたはずです。
ドラフト下位指名でプロ入りした選手がエースになるという物語は、スポーツの世界では最もドラマチックな成長ストーリーの一つです。
プロ2年目に9勝を挙げた急成長の軌跡
プロ1年目の2019年、翔征さんは9月27日のDeNA戦で初勝利を挙げました。
この勝利はチームにとっても17年ぶりの「高卒新人勝利」という歴史的な記録でした。
そしてプロ2年目の2020年、翔征さんは先発ローテーションに定着し、9勝という成績を残します。
プロ2年目に9勝というのは、高卒新人として入団した選手の成長スピードとしては異例の速さです。
プロの世界では1年目から先発ローテーションに定着する高卒選手はごく少数であり、翔征さんは最初から高い適応力を見せました。
2年目の9勝という成果は、幼少期から積み重ねてきた練習の質と量、そして独自のフォームと変化球を磨いてきた努力の証明でした。
プロ入り前に「6位」と評価された選手が、わずか2年でローテーションの柱になるという成長ぶりに、球界全体が注目し始めました。
2022年に12勝で初の二桁勝利を達成
2022年、翔征さんはプロ入り4年目にして初の二桁勝利となる12勝を達成しました。
先発投手として二桁勝利を挙げることは、ローテーションの柱として認められる一つの基準です。
12勝という数字は、翔征さんがドラフト6位という評価を完全に払拭し、ジャイアンツのエースとしての地位を確立したことを示しています。
菅野智之さんがジャイアンツを離れた後、「後継者」として期待を背負ってきた翔征さんにとって、2022年の12勝は「その期待に応えた」ことを証明するシーズンでした。
父・健治さんが作ってくれた投球ネットで毎日投げ込んでいた少年が、ついにプロの世界でエースとして認められた瞬間です。
桑田コーチも高く評価し続けてきた翔征さんの成長は、チームの内外で「本物だ」という評価を確立させました。
菅野智之から受けた「後継者」の指名と言葉
ジャイアンツの長年のエースだった菅野智之さんは、翔征さんを「後継者」として指名してきました。
そして2023年のWBCを経て、菅野さんが翔征さんに伝えた言葉が残っています。
「俺もたくさん悩んできた」「結果が出なくても……」というエースとして長くジャイアンツを支えてきた先輩の言葉は、技術的なアドバイスではなく、投手として生きていくための「姿勢」を伝えるものでした。
プロの世界では結果が出ない時期も必ず来ます。
そのとき、どう向き合いどう乗り越えるかという精神的な強さを、菅野さんは翔征さんに伝えたかったのでしょう。
2023年WBCで世界の舞台を共に戦い、先輩の背中から多くを学んだ翔征さんは、エースとしての責任感と覚悟をより深めていったはずです。
実家で父に教わった「負けず嫌い」の精神と、プロで得た先輩の言葉が融合して、戸郷翔征というエースが完成に向かっています。
ドラフト6位というスタートから、2022年に12勝でエースの地位を確立するまでの軌跡は、宮崎・都城の実家で培った「負けず嫌い」の精神と、父・健治さんから受け継いだ野球への情熱が原動力でした。
独自のフォームを貫き、独学で変化球を磨き、評価をはねのけ続けてきた戸郷翔征の物語は、地方出身者がプロの世界で頂点を目指す全てのアスリートへの励ましです。
WBC侍ジャパンと家族が見つめた栄光
2023年のWBCは、戸郷翔征さんにとっても、その家族にとっても、忘れられない出来事になりました。
宮崎・都城の実家で育んだ野球への情熱が、ついに世界の舞台で花開いた瞬間でした。
| 大会 | 2023年WBC(ワールド・ベースボール・クラシック) |
|---|---|
| 所属 | 侍ジャパン(日本代表) |
| 注目試合 | 中国戦 |
| 登板成績 | 2番手・3回投球・7三振(救援での大会記録更新) |
| チームメート | 山本由伸、菅野智之(兄・悠大さんの旧知) |
2023年WBC侍ジャパンメンバーへの選出
2023年のWBC日本代表「侍ジャパン」に、翔征さんが選出されました。
プロ入り5年目、26歳(当時26歳)での日本代表選出は、翔征さんがジャイアンツだけでなく日本全体のトップ投手として認められたことを意味します。
侍ジャパンには大谷翔平さんや山本由伸さんなど、球界を代表する選手たちが集結しており、翔征さんはその一員として名を連ねました。
宮崎・三股町の少年野球チームで投げ始めた少年が、日の丸を背負って世界の舞台に立つ——この事実は、翔征さんの家族全員にとって、言葉では表現しきれないほどの喜びだったはずです。
兄・悠大さんはWBCを控えた宮崎での春季キャンプに足を運び、弟と、同じ都城高校出身の友人・山本由伸さんを激励しています。
「弟とともに力を出し尽くしてほしい」という悠大さんの言葉には、兄としての誇りと応援の気持ちが込められていました。
中国戦で救援最多7三振の大活躍
WBCの中国戦に登板した翔征さんは、2番手として3回を投げ、7三振を奪う圧巻のピッチングを披露しました。
この7三振は救援投手としての大会記録を更新するものでした。
独特なアーム式フォームから繰り出される速球と多彩な変化球は、世界の打者を相手にしても通用することを証明した登板でした。
「この投げ方を貫き通して、今ここまできました」という言葉通り、誰にも矯正されなかった独自のフォームが、世界の舞台でも最高の武器になったのです。
父・健治さんが「矯正してケガして野球人生が終わるより、そのままでダメになる方がいい」と決断したあの日から、何年もの月日を経て、その判断の正しさが世界の舞台で証明されました。
都城市の自宅駐車場に作った手製の投球ネットで毎日投げ込んでいた少年が、世界一を決める舞台で7三振を奪うエースになった——この成長の軌跡は、家族4人で歩んできた長い道のりの集大成です。
兄・悠大さんが語った「すごく大人になった」弟
WBCの中国戦で翔征さんが活躍した後、兄・悠大さんはサンスポの取材にこう語っています。
「すごく大人になっているなと。抑えている姿を見て元気をもらいました」
この言葉には、幼い頃から弟を見続けてきた兄ならではの、複雑な感情が込められています。
自室の鏡に向かって黙々とシャドーピッチングを繰り返していた中学生の弟が、今や世界の舞台で7三振を奪っている——悠大さんの目には、そのギャップが鮮明に映ったはずです。
「陰で努力するタイプ」と評した弟の努力が世界の舞台で実を結んだ瞬間を目の当たりにして、「元気をもらいました」という素直な言葉が出てきた悠大さんの心情は、多くの人の心を打ちます。
自衛官として日々の仕事に向き合いながら、弟の活躍を心から喜ぶ兄・悠大さんの姿は、戸郷家の4人家族の絆がいかに強いかを物語っています。
父の日に語った父・健治さんへの感謝の言葉
ある年の父の日、翔征さんはスポーツ報知の取材で父・健治さんへの感謝をこう語っています。
「僕に野球を始めるきっかけをくれた人なので、本当に感謝しています。お父さん自身も高校まで野球をやっていたこともあって、時には厳しく言われたこともありましたけど、野球の楽しさを教えてもらいました」
この言葉には、長距離トラック運転手として多忙な仕事をこなしながら、息子の野球を全力でサポートしてきた父への深い尊敬と愛情が滲んでいます。
「時には厳しく言われた」という言葉から、父・健治さんが単に優しく見守るだけでなく、時に厳しい言葉で息子を叱咤激励してきたことがわかります。
その厳しさもまた愛情の一形態であり、翔征さんがプロの世界で揺るぎないメンタルを持てているのは、父からの「負けず嫌い」の精神と厳しさの教えがあってこそでしょう。
駐車場に釣り用ネットを改良して作ったあの投球ネットから始まった父と息子の野球物語は、WBCという世界最高の舞台まで続いていったのです。
都城市の駐車場で釣り用ネットを改良した投球ネットに向かって毎日投げ込んでいた少年が、日の丸を背負って世界の舞台に立つ——翔征さんのWBCでの活躍は、実家と家族が20年以上かけて育んできた物語の集大成です。
母・ヒトミさんの「やり切った、やりよったな!」という宮崎の言葉が、すべてを語っています。
みやこんじょ大使と故郷・都城への愛
プロ野球選手として活躍するだけでなく、戸郷翔征さんは故郷・都城市の「みやこんじょ大使」としても地元への貢献を続けています。
宮崎・都城への深い愛情は、翔征さんの人間性を象徴するエピソードの一つです。
みやこんじょ大使とはどんな役割か
「みやこんじょ大使」とは、宮崎県都城市が都城市出身の著名人に委嘱する観光PR大使のことです。
都城市の魅力を全国に発信し、地域の観光・文化・産業のPRを行う役割を担います。
翔征さんは19歳(2019年)にみやこんじょ大使に委嘱されており、これはジャイアンツ入団からわずか1年目という早い段階での任命でした。
地元が将来性のある若いプロ野球選手に期待を込めて大使を委嘱したわけで、翔征さんへの地元の期待の大きさが伝わります。
委嘱式では翔征さんは「都城をはじめ、宮崎県全体をPRしたい」と抱負を語り、故郷への強い愛着と責任感を示しました。
プロ野球選手として全国的な知名度を高めるにつれ、翔征さんの存在が都城市のPRに貢献してきたことは間違いありません。
「宮崎県全体をPRしたい」という地元愛
委嘱式での「都城をはじめ、宮崎県全体をPRしたい」という言葉は、都城市だけでなく宮崎県全体への広い愛情を示しています。
都城市で生まれ育ち、宮崎県内の高校(聖心ウルスラ学園)で甲子園を目指し、プロの舞台でも「宮崎出身」として活躍してきた翔征さんにとって、宮崎県はアイデンティティの核心です。
ジャイアンツで宮崎出身の選手として注目を集めることで、宮崎県の野球熱とスポーツ文化の高さを全国に発信する役割を自然と担ってきました。
また、兄・悠大さんの同級生である山本由伸さんも宮崎(都城高校)出身であり、WBCでは2人の「都城ゆかりの投手」が侍ジャパンで活躍したことは、都城市の名を全国に広める大きなきっかけになりました。
都城市という地方都市から世界の舞台に立つ選手が生まれたことは、地元の子供たちにとって「自分も頑張れば世界に出られる」という夢と希望を与えるものです。
母校・聖心ウルスラ学園での自主トレという伝統
プロ入り後、翔征さんは毎年冬の自主トレーニングを母校・聖心ウルスラ学園高校のグラウンドで行っています。
ランニングやノック、キャッチボールなどを行い、後輩たちの目の前で汗を流す姿は、地元の野球少年たちへの最高の刺激となっています。
プロになっても母校のグラウンドに戻り、後輩たちとともに練習するという翔征さんの姿勢は、「地元を忘れない」という誠実な人間性の表れです。
聖心ウルスラ学園のグラウンドは、高校2年の夏に甲子園出場という夢を実現した場所であり、翔征さんにとって特別な思い入れのある場所です。
毎年その場所に戻って練習するという行為は、初心を忘れないための儀式であり、地元への感謝の表し方でもあるのかもしれません。
自炊生活と故郷の米への深いこだわり
プロ入り2年目に一人暮らしを始めた翔征さんは、料理が得意で自炊を続けているといいます。
子供の頃から料理が得意だったという翔征さんは、一人暮らしの生活でも「野菜炒めなど簡単な手料理」を自ら作っています。
しかし、翔征さんには一つの悩みがありました。
「お米が足らないです」——深刻な「米不足問題」です。
翔征さんは「あきたこまち」などの銘柄米を好み、後輩の実家や知り合いに頼んで米を送ってもらいながら自炊を続けているといいます。
「買って帰ろうかな」と宮崎の米にも思いを馳せているという翔征さんの言葉には、都会生活の中でも故郷の食を恋しがる素直な姿が見えます。
一流の投手として世界の舞台に立ちながら、「米が足りない」と困っている素朴な一面——翔征さんの人間的な魅力は、こうした日常のエピソードからも感じ取れます。
都城の自然の中で育ち、母・ヒトミさんの手料理を食べながら成長した翔征さんにとって、「白いご飯」は故郷とのつながりを感じさせる大切な存在なのかもしれません。
故郷・都城への愛情は、翔征さんのパーソナリティの根幹を成しています。
プロ野球選手として東京を拠点に生活しながらも、都城市への思いを絶やさず、みやこんじょ大使として地元のPRに貢献し続ける翔征さんの姿勢は、実家と家族への感謝の表れでもあります。
長距離トラック運転手として全国を駆け回りながら息子の野球を支えた父・健治さん、看護師として働きながら体づくりを支えた母・ヒトミさん、そして「陰で努力する弟」を誇らしく思う兄・悠大さん——この4人が都城市の実家で育んだ絆が、世界の舞台で活躍する戸郷翔征を支え続けています。
宮崎県都城市という地方都市から生まれたジャイアンツのエースが、みやこんじょ大使として故郷に恩返しし続ける姿は、スポーツが地域に与える希望の大きさを感じさせてくれます。
「都城をはじめ、宮崎県全体をPRしたい」という翔征さんの言葉は、野球選手としての活躍を超えて、地元への恩返しを誓った宣言です。
戸郷翔征の実家と家族の総まとめポイント
- 実家は宮崎県都城市にあり、山に囲まれた自然豊かな盆地で生まれ育った
- 家族構成は父・健治さん、母・ヒトミさん、兄・悠大さんの4人家族だ
- 父・健治さんは長距離トラック運転手で高校まで野球を経験した元球児だ
- 父は翔征が生まれる前から「男の子なら野球」と決めていた野球一家の中心だ
- 自宅の駐車場に釣り用ネットを改良した投球ネットを設置し毎日の練習環境を整えた
- 走り込みでは両親が車で後ろから伴走するほど熱心に息子をサポートした
- 父は独特なアーム式フォームを矯正せず「ケガして終わるのはかわいそう」と貫いた
- 中学進学前に野球部員100人のマンモス校を避けるため一家で引っ越しをした
- 母・ヒトミさんは看護師でママさんバレーを楽しむ運動好きな女性だ
- 翔征という名前は兄・悠大の字「悠・翔」を組み合わせた母の命名で兄弟の絆が名前に宿っている
- 兄・悠大さんは山本由伸と都城高校の同学年で現在は自衛官として活躍中だ
- 出身高校は聖心ウルスラ学園高校(延岡市)で高校2年夏に甲子園出場を果たした
- 6球種の変化球はすべて独学で習得し「名前は後から知った」という感覚派の投手だ
- 2018年ドラフト6位で巨人入団後、2022年に12勝で初の二桁勝利を達成したエースだ
- 2023年WBCでは侍ジャパンに選ばれ中国戦で救援7三振の大会記録を更新した
