王貞治の実家は中華料理店五十番|墨田区八広の生家と父親・母親や家族構成

※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
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王貞治さんの実家がどんな家だったのか、気になっている方は多いのではないでしょうか。

結論から言うと、王貞治さんの実家は東京都墨田区八広にあった中華料理店「五十番」です。

父親は中国の浙江省から出稼ぎに来た王仕福さんで、母親は富山県出身の登美さんでした。

夫婦二人で買い取った小さな店は、やがて従業員50名を抱える大店へと成長していきます。

この記事では、五十番の創業から閉店までの歩み、生家跡地の現在、そして両親と双子の姉の人物像まで、公開されている資料をもとに順番に整理していきます。

あなたが知りたかった王貞治さんのルーツが、ひと通り見えてくるはずですよ。

記事のポイント

①:実家は墨田区八広の中華料理店五十番

②:父親は浙江省出身の王仕福で母親は登美

③:五十番は1965年閉店し現在は洋食50BAN

④:双子の姉広子は1歳3カ月で亡くなった

王貞治の実家は中華料理店五十番|墨田区八広の生家

  • 実家の中華料理店・五十番の歴史
  • 生家があった墨田区八広はどんな町
  • 五十番の移転年表と押上の第二号店
  • 生家跡地の現在と周辺の様子
  • 五十番の消滅と洋食50BANの現在
  • のれん分けした関五一の五十番

実家の中華料理店・五十番の歴史

 

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結論から言うと、王貞治さんの実家は東京都墨田区にあった中華料理店「五十番」です。

ここでは、その五十番がどのように生まれ、王貞治さんがどんな環境で産声を上げたのかを、墨田区の郷土資料に残る記録をもとに信頼できる形で整理します。

五十番は買い取りで始まった

五十番の始まりは1928年(昭和3年)のことでした。

王貞治さんの父親である王仕福さんと、母親の登美さんの夫婦が、当時の向島区吾嬬町西八丁目にあった中華料理店「五十番」を、屋号ごと居抜きで買い取ったのが出発点です。

場所は現在の墨田区八広4-35-17付近で、墨田区立第五吾嬬小学校の東側にあたります。

つまり五十番という店名は、王家がゼロから考えた名前ではありません。

前の経営者が使っていた屋号をそのまま引き継いだというのが正確な経緯です。

当初の店は何坪もないほどの広さだったと伝えられており、夫婦二人と少人数の従業員で回す町の食堂というのが実態でした。

ここ、意外に思う方も多いポイントですよね。

世界のホームラン王を生んだ家が、最初は小さな居抜き物件から始まっていたというわけです。

ここで押さえておきたいのは、王家が店を手に入れた1928年という年です。

この年は王貞治さんが生まれる12年前にあたり、父親の仕福さんはすでに料理人として独立できる腕を持っていたことになります。

居抜きでの買い取りですから、厨房の設備も客席もそのまま使えた形です。

開業資金を抑えながら商売を始めるという、当時の下町らしい現実的な出発でした。

王貞治のプロフィールと生家

下記の表は、王貞治さんの基本情報と実家に関する項目をまとめたものです。

項目 内容
名前 王貞治(おう さだはる)
生年月日 1940年5月10日(届出は5月20日)
2026年10月12日現在の年齢 86歳
出生地 東京府向島区吾嬬町西(現在の墨田区八広)
実家 中華料理店「五十番」
父親 王仕福(中国・浙江省青田県出身)
母親 登美(富山県出身)
国籍 中華民国籍
出身校 業平小学校・本所中学校・早稲田実業
通算本塁打 868本(プロ野球記録)

王貞治さんが生まれたのは、買い取った最初の店舗ではありません。

1938年(昭和13年)に移転した二軒目の店舗、つまり吾嬬町西六丁目の表通りに建てた二階建ての家が生家にあたります。

ここは現在の八広3-38-8付近で、いまの八広はなみずき通りに面した場所です。

20坪の土地に立派な二階建てを構えたという記録が残っており、創業から10年でそれだけの店を建てられるまでになっていたことがわかります。

表通りに面した立地というのが、商売の上では決定的な条件でした。

路地裏の小さな店から表通りの二階建てへ、という移転は王家にとって明確な格上げだったわけです。

王貞治さんが生まれたのは、その新しい店舗が完成してから2年後のことになります。

屋号の五十番の由来は不明

では、そもそも五十番という屋号はどこから来たのでしょうか。

この点については、王家が買い取る前の経営者が付けた名前であるため、公開されている資料のなかに明確な由来の説明は見当たりません。

ただ、この屋号はのちに思いがけない形で広がっていきます。

王仕福さんの一番弟子だった関五一さんの名前が、五十番の一つ次である51だったという偶然もありました。

探訪記を書いたブログの筆者も「偶然にしてはちょっと出来すぎている」と驚きを記しています。

さらに福岡では、王貞治さんのファンだった経営者が実家の屋号にあやかって自分の食堂に五十番と名付けた例まで生まれました。

由来不明の屋号が、ホームラン王の実家というだけで独り歩きを始めたわけです。

名前だけが各地に残っていくというのは、なんだか不思議な現象ですよね。

由来がわからないまま広まった名前というのは、商売の世界では珍しくありません。

ただ五十番の場合は、王貞治さんという存在があったせいで知名度だけが先に跳ね上がりました。

その結果、本家の店が消えたあとも屋号だけが各地に残るという状態が生まれています。

洋食50BANという表記も、五十番をローマ字と数字に置き換えたものです。

実家が中華料理店になった経緯

王家が中華料理店を営むことになった背景には、父親の王仕福さんの来歴が深く関わっています。

仕福さんは中国の浙江省青田県から日本へ出稼ぎに来た人で、来日当初は料理人ではありませんでした。

最初に就いた仕事は町工場の勤め人で、働きながら料理を覚えていったと伝えられています。

その腕をもとに、既に営業していた中華料理店を名前ごと譲り受けたという流れです。

一方の登美さんは富山県から東京へ奉公に出てきた日本人女性でした。

中国から来た料理人と、北陸から出てきた働き者の女性が東京の下町で出会い、その二人が買い取った店が五十番だったことになります。

王貞治さんのルーツを語るときに、父親の浙江省と母親の富山県という二つの土地が必ず出てくるのは、この成り立ちがあるからなんですよ。

注目したいのは、仕福さんが来日した時点では料理人ではなかったという点です。

町工場に勤めながら腕を身につけ、やがて一軒の店を任される立場まで登っていきました。

そして登美さんも富山から奉公に出てきた身で、どちらも故郷に頼れる家がない状況でした。

その二人が自分たちの店を持つという選択をしたのが、五十番の始まりだったのです。

王貞治さんの実家は、最初から用意されていた家業ではなかったことになりますね。

生家があった墨田区八広はどんな町

公式資料や現地を歩いたルポを総合すると、王貞治さんの生家があった一帯は、町工場と移住者が入り混じる典型的な東京下町でした。

ここでは、その土地の性格と現在の様子を整理して、あなたが地図を思い描けるようにしてみます。

向島区吾嬬町から八広への変遷

まず押さえておきたいのは、王貞治さんが生まれた当時の住所表記が今とまったく違うことです。

生家の所在地は東京府向島区吾嬬町西六丁目で、現在の墨田区八広三丁目から四丁目にあたります。

向島区という区名も、吾嬬町という町名も、いまの地図には存在しません。

吾嬬という地名は現在では墨田区立第五吾嬬小学校のような学校名に残るだけになりました。

五十番を探して現地を歩いたブログの筆者も「当時の吾嬬町という地名ごとそっくり変わってしまった一帯」と書き残しています。

地名が消えると、その土地の記憶も一緒に薄れていくものですよね。

八広という町名は2026年に町として60周年を迎えた比較的新しい地名です。

住所の表記が変わると、昔の資料と現在の地図を照らし合わせるのが一気に難しくなります。

そのため王貞治さんの生家を探す場合は、旧町名と現在の番地を対応させて読む必要があります。

初代の五十番があった吾嬬町西八丁目は、現在の八広四丁目付近にあたります。

生家のあった西六丁目については、八広三丁目38番8号付近とする記録と、墨田区の資料のように八広四丁目と記すものがあります。

いずれも京成押上線の八広駅から歩いて回れる範囲に収まっています。

地名が消えても、土地そのものは今も同じ場所にあるというわけです。

町工場と移民が集まった土地

この一帯がどんな性格の町だったのかを知る手がかりは、父親の王仕福さんが落ち着いた理由にあります。

資料によると、当時の墨田区にあたる向島区と本所区には浙江省から出稼ぎに来た人たちのコミュニティがありました。

さらに町工場が軒を連ねる地域だったため、言葉の不自由な来日者でも働き口を見つけやすかったのです。

仕福さんが最初に町工場へ勤めたのも、この土地柄があってこそでした。

つまり王貞治さんの実家は、同郷の人たちが支え合う移住者ネットワークの中に根を下ろした店だったと言えます。

そうした環境で育った中華料理店が、近所の人が驚くほど真面目な働きぶりで評判を取り、やがて二号店を出すまでになりました。

下町の人情と移住者の勤勉さが重なった場所、というのがこの町の素顔なのかなと思います。

こうした土地の性格は、戦後の復興期にもそのまま引き継がれました。

墨田区の資料は、戦災で多大な被害を受けた区にとって王選手が「希望の星であった」と書き残しています。

工場と商店が密集する町で、子供たちは路地や空き地で野球に熱中しました。

当時の庶民の娯楽の中心は映画や相撲、そして野球だったと記録されています。

その環境こそが、王貞治さんという打者を育てた土壌だったのかなと思います。

京成押上線八広駅の周辺環境

現在の八広へのアクセスは、京成押上線の八広駅が最寄りです。

この駅はかつて荒川駅という名前で、王貞治さんの少年時代には荒川駅と呼ばれていました。

駅前には後述する洋食50BANがあり、店までの距離は駅から228mと案内されています。

押上駅からはコミュニティーバスでも向かうことができ、生家跡地から八広駅前までは徒歩10分足らずの距離感です。

そして現在の八広は、東京スカイツリーを仰ぎ見ることができる場所でもあります。

五十番を訪ね歩いたブログの筆者は、押上駅方向の空に立つスカイツリーを「逆さに立てた巨大なバットの形に見えた」と表現しました。

ホームラン王を生んだ町に巨大なバットが立っている、というのは言われてみると妙に納得できる見立てですよね。

なお駅名が荒川駅から八広駅へ変わったのは、町名が八広になったことと関係しています。

そのため古い資料で荒川駅前と書かれていても、現在の八広駅前と同じ場所を指しています。

吾嬬町の五十番が1948年に移転した先も、この荒川駅前でした。

駅前という好立地を選んだ判断が、結果的に屋号を現在まで生き残らせたことになります。

生家跡地と駅前の店を続けて歩けるので、ゆかりの地めぐりには向いた土地ですよ。

八広60周年の記念行事と王貞治

地元が王貞治さんをどれだけ大切にしているかは、近年の記念行事からもよくわかります。

八広のまちが60周年を迎えるのに合わせ、生誕地である八広で「令和八年八月八日」と銘打った記念祝賀行事が企画されました。

メインイベントは888人の提灯行列で、区内小中学校5校の生徒約2000人と、幼稚園・保育園の約500人に提灯を配布して準備するという大規模なものです。

会場には王会長をたたえる展示コーナーも設けられました。

実行委員会からは「実際に王さんにお越しいただけないか、難しいかもしれないけれど、お願いしたい」というラブコールまで出ています。

墨田区の山本区長も「墨田区も来年3月には区制施行80周年を迎える。その前に八広のまちが60周年で盛り上がる。大変楽しみ。区としてもPRに協力していきたい」と語りました。

ゲストには地元出身で第79代日本バンタム級王者となったプロボクシングの栗原慶太さんが招かれています。

生家があるだけで町のお祭りが成立してしまうあたり、やはり格が違いますね。

888という数字は、言うまでもなく通算868本塁打を打った打者への敬意を込めたものです。

地元の子供たちが提灯を持って歩く行列というのが、下町らしい祝い方ですよね。

五十番の移転年表と押上の第二号店

1928年の創業から1965年の閉店まで、五十番は実に目まぐるしい変遷をたどりました。

戦前・戦後の動乱期をはさんでいるため、文章で追うと混乱しがちな部分です。

そこで、まずは年表で全体像をつかんでから、ひとつずつ中身を見ていきましょう。

五十番の移転を年表で整理

以下の表は、五十番の移転と王家の動きを時系列でまとめたものです。

年月(和暦) 五十番と王家の動き
1928年(昭和3年) 仕福・登美夫妻が吾嬬町西八丁目の五十番を屋号ごと買い取り創業
1938年(昭和13年) 吾嬬町西六丁目の表通りに20坪の二階建て店舗を建てて移転
1940年5月10日 王貞治が双子の弟として誕生
1945年3月10日 空襲により店舗が焼失
1945年11月 店舗を復旧して営業を再開
1946年7月 吾嬬町の店を登美の弟・川口二郎夫妻が引き継ぐ
1946年12月 一家が業平橋二丁目へ移り「押上の五十番」を開く
1948年6月 吾嬬町の店が京成押上線荒川駅前へ移転
1962年(昭和37年) 押上の店を閉じて新宿へ転居。関五一にのれん分け
1965年(昭和40年) 新宿の五十番が閉店し37年の歴史に幕
1969年(昭和44年) 吾嬬町の店が中華から洋食へリニューアル

この年表を見ると、五十番という屋号が一本道ではなく二系統に分かれて受け継がれていったことがはっきりします。

王一家が率いた本家の流れと、母方の親族が守った吾嬬町の流れです。

そして現在まで残っているのは、吾嬬町の系統だけという結果になっています。

本家が二度の移転を経て消え、分家が創業の地で生き残ったという流れです。

第二五十番と名付けた父の思い

1946年12月、王一家は業平橋二丁目へ移って新しい店を開きました。

これが通称「押上の五十番」で、現在の業平2-14-5付近にあたります。

このとき父親の王仕福さんが見せたこだわりが、とても印象的なエピソードとして残っています。

仕福さんは押上へ移る際、「この店こそ、私達にとって最初の店だと思っている。だからここが第一、押上の店は第二・五十番にしましょう」と言いました。

そして押上の店の看板には、わざわざ第二という文字を入れたのです。

自分たちが新しく構えた大きな店を第二と呼び、創業の地を第一として立てる。

この順序には、はじまりの場所を大切にする仕福さんの人柄がにじんでいますよね。

結論から言うと、王貞治さんが少年時代を過ごしたのはこの第二・五十番ということになります。

この命名のこだわりには、もう一つの事情も重なっていました。

吾嬬町の店は登美さんの弟夫妻が引き継ぐことになっていたため、第一と呼ぶことで創業の地に敬意を示す形になりました。

身内に譲った店を下に置かず、むしろ上に立てたということです。

そして押上の店は、やがて従業員50名を抱える最盛期を迎えます。

規模では第二の店が本家を上回ったのに、看板の序列は変えなかったわけですね。

空襲で焼失した1945年3月

五十番の歴史でもっとも過酷だったのが、1945年3月10日の空襲です。

この日の大空襲で、1938年に建てた二階建ての店舗は焼けてしまいました。

王貞治さんが生まれ育った家が、わずか4歳のときに失われたことになります。

ところが王家の立ち直りはとにかく早く、同年11月にはもう店を再開させています。

焼け跡からわずか8カ月での営業再開ですから、相当な気力だったはずです。

この時期の商売は、配給品だけではとても成り立ちませんでした。

そのため仕福さんは千葉方面などへ自ら仕入れに出かけるようになります。

戦災で多大な被害を受けた墨田区にとって、高校時代に全国優勝を遂げた王選手は「希望の星であった」と区の資料にも記されました。

この1945年3月10日は、東京の下町一帯が壊滅的な被害を受けた日として知られています。

工場が密集していた向島区も例外ではなく、五十番の二階建て店舗は焼け落ちました。

それでも王家は焼け跡で店を立て直し、11月には再び暖簾を出しています。

そしてその翌年の暮れには、押上への移転という次の一手を打ちました。

焼失から再開、そして移転までが2年足らずというスピード感には驚かされます。

この時期の踏ん張りがなければ、五十番の歴史はここで終わっていたはずです。

吾嬬町の店を継いだ川口夫妻

一家が押上へ移ったあと、創業の地である吾嬬町の五十番はどうなったのでしょうか。

答えは、母親の登美さんの弟夫妻が引き継いだ、です。

1946年7月に復員してきた川口二郎さん・志津子さん夫妻が店を受け継ぎ、「吾嬬町の五十番」として存続することになりました。

さらに1948年6月には、第五吾嬬小学校の北側にあたる京成押上線荒川駅前へと移転します。

そして1969年、この店は中華料理から洋食へと業態を変えました。

この流れこそが、現在も八広駅前で営業している洋食50BANにつながっていきます。

母方の親族が創業の地を守り続けたという事実は、五十番という屋号が今も生きている最大の理由ですよ。

川口二郎さんが復員してきたのは1946年7月のことでした。

戦地から帰ってきた弟に、姉夫婦が創業の店を託したという構図になります。

登美さんは19歳で家の主となって弟妹を支えた人ですから、この判断はいかにも登美さんらしいものです。

そして川口夫妻はこの店を守り続け、1948年には荒川駅前へ移転させました。

さらに1969年には中華から洋食へと大きく舵を切っています。

時代に合わせて業態を変えながら屋号を残したという点で、この判断は正解でしたよね。

生家跡地の現在と周辺の様子

 

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では、王貞治さんの生家があった場所は、いまどうなっているのでしょうか。

ここでは現地を歩いたルポと墨田区の資料をもとに、跡地の現在とゆかりの場所を順番に確認していきます。

生家跡地は民家が建つ一画

押上駅からコミュニティーバスに揺られてたどり着いた生家の跡地は、意外なほど静かな一画でした。

探訪したブログの筆者が目にしたのは、マンションに挟まれて佇むトタン張りの一軒家だったといいます。

もちろんこの家は王一家が転居した後に別の人が建てたもので、当時の店舗そのものではありません。

しかも訪問時には表札もなく、誰も住んでいないように見えたと記されています。

つまり生家の跡地に当時をしのばせる建物は残っていないというのが現状です。

看板も記念碑もなく、ただ住宅が建っているだけ。

世界記録を打ち立てた打者の生誕地としては、ちょっと寂しい光景かもしれませんね。

筆者も「当時をしのぶ物が何も無いのも哀しく侘しいものである」と素直な感想を書き残しています。

場所は現在の八広三丁目38番8号付近で、八広はなみずき通りに面した一帯です。

押上駅からはコミュニティーバスで向かうことができます。

通りの名前こそ変わりましたが、表通りに面しているという立地条件は当時と同じです。

20坪の土地に二階建ての店を構えていた場所に、今は普通の住宅が建っているわけです。

記念碑がないぶん、訪ねるなら事前に住所を調べていく必要がありますよ。

初代五十番の跡は残っていない

生家よりもさらに古い、王貞治さんが生まれる前の初代五十番についても触れておきます。

1928年に買い取った最初の店は、この界隈の路地裏にあったとされています。

場所は現在の八広4-35-17付近で、第五吾嬬小学校の東側です。

しかし現地を歩いた記録によれば、初代五十番の跡形はまったく残っていません。

それどころか、この辺りの住民のほとんどが初代の店の存在すら知らないというのです。

移転と空襲、そして町名変更が重なったことで、記憶の糸が切れてしまったのでしょう。

ここ、気になるところだと思うので補足しておくと、創業の地の系統自体は洋食50BANとして今も続いています。

建物は消えても屋号は生き残った、という整理になりますよ。

初代の店は、1928年から1938年までの10年間だけ使われた店舗でした。

その後に一家が移転し、さらに戦災と町名変更が重なったことで痕跡が消えていきます。

場所の目印になるのは、現在も残る墨田区立第五吾嬬小学校です。

この小学校の東側が初代五十番、北側が1948年移転後の吾嬬町の五十番にあたります。

学校という変わりにくい施設を基準にすると、ようやく位置関係が見えてきます。

買い取った当時の店は、今では資料の中にだけ存在する店になっています。

押上の店の跡地は春慶寺

少年時代の王貞治さんが暮らした押上の五十番、いわゆる第二・五十番の跡地はどうでしょうか。

この店は東京スカイツリーがそびえる真南、浅草通り沿いにありました。

ところが現在その場所に建っているのは、春慶寺という七階建ての寺院です。

最盛期には従業員50名を使う大店だった五十番の面影は、もうどこにもありません。

王貞治さんがすくすくと成長するのと呼応するかのようにお店も繁盛していったと伝えられますが、その舞台は寺院に姿を変えました。

生家跡、初代の跡、押上の跡と三カ所をたどって、建物が残っているものが一つもないというのが結論です。

だからこそ、八広で現役営業している洋食50BANの存在価値が際立つわけですね。

住所でいえば現在の業平二丁目14番5号付近です。

浅草通り沿いという大通りに面した立地で、繁盛するだけの条件はそろっていました。

この店に一家が暮らしたのは1946年12月から1962年までの約16年間です。

つまり王貞治さんが小学校に入学してから巨人軍で数年を過ごすまで、ここが実家でした。

甲子園で優勝した高校時代も、この押上の店が帰る家だったことになります。

その場所が七階建ての寺院になっているというのは、下町の変化の速さを物語っていますね。

隅田公園の少年野球場とレリーフ

実家の跡地と並んで訪ねておきたいのが、隅田公園の一画にある少年野球場です。

ここは王少年が野球に励んだ場所であり、プロ入り後に師匠の荒川博さんと特訓した場所でもあります。

さらにスポーツ漫画の金字塔「巨人の星」で、主人公の星飛雄馬が王貞治と対決したのもこのグラウンドでした。

実際のグラウンドは非常に狭く、訪れた人には可愛らしく映るほどの広さだといいます。

ただ入り口にある立派なゲートの左サイドには、王選手モデルの一本足打者のレリーフがひときわ輝いて掲げられています。

もう一つの記念碑は本所中学校にあり、こちらには王貞治さんの自筆による「気力」の文字が刻まれました。

実家の建物は消えてしまいましたが、少年時代の足跡はこうしてきちんと町に刻まれています。

生家跡地を訪ねるなら、この二カ所もあわせて回ってみるのがおすすめですよ。

墨田区は2001年に「王貞治の軌跡 僕らが野球少年だった頃」という展示も開催しました。

この展示では昭和30年から40年代のすみだの風景写真が多数並び、区内の少年野球チームも紹介されています。

担当したのは、すみだ郷土文化資料館です。

実家の建物を探すだけでなく、こうした資料に当たるのが確実な方法ですよ。

五十番の消滅と洋食50BANの現在

王貞治さんの実家はラーメン屋だったのか、そして今も営業しているのか。

検索窓によく打ち込まれるこの疑問について、ここでは噂と事実をきっちり切り分けて整理します。

本家五十番は1965年に閉店

まず結論を言うと、王一家が営んだ本家の五十番はすでに存在しません。

1962年、父親の仕福さんと母親の登美さんは押上の五十番を閉じて新宿へ転居しました。

新宿でも営業を続けていましたが、長年働き続けた二人は1965年についに店を閉めます。

これにより、1928年から続いた37年間の歴史に幕が下りました。

仕福さんが料理人を引退したのもこの1965年のことです。

2019年5月10日に放送されたTBS系の番組「爆報!THE フライデー」では、この実家の五十番が消滅していたことが改めて取り上げられました。

王貞治さんの実家をラーメン屋として記憶している方にとっては、少しショックな事実かもしれません。

ただし屋号そのものは、別のかたちで生き残っています。

閉店の理由としてはっきり記されているのは、長年働き続けた二人の年齢です。

仕福さんは20歳頃に来日してから半世紀近く働き続けた人でした。

1962年に押上の店を閉じた時点で従業員50名の経営から手を引き、新宿では規模を縮めて続けていました。

そして3年後の1965年、ついに料理人としての歩みを終えています。

王貞治さんが巨人で一本足打法に開眼したのが1962年ですから、息子の全盛期と親の引退が重なった形です。

洋食50BANの店舗情報

創業の地の系統を受け継いでいるのが、八広駅前の洋食50BANです。

下記の表は、その店舗情報をまとめたものです。

項目 内容
店名 洋食50BAN 八広店
住所 東京都墨田区八広4-25-5
アクセス 京成押上線八広駅から228m
定休日 第2・4日曜日
創業 1927年に中華料理店として創業
業態変更 1968年に洋食店へ転換
経営 王貞治のいとこ・川口俊幸
名物 スペシャルカツサンド1,100円

なお創業年と業態変更の年については、墨田区の資料が1928年創業・1969年リニューアルと記し、飲食店情報サイトは1927年創業・1968年変更としています。

1年のずれがあるので、おおよそこの時期と受け取るのが無難です。

実際に訪れた人の記録では、昭和レトロを想像していたところ思い切った外装に面食らったとあります。

平日昼の12時でも狭い店内は満席という繁盛ぶりで、壁には王選手の写真や有名人のサインが飾られています。

名物のスペシャルカツサンドは、厚さ2センチ超のヒレカツをトーストで挟んだものが四切れという豪快さです。

野球選手への差し入れにも使われたという逸話つきのボリュームですよ。

口コミではオムライスを目当てに訪れる人も多く、洋食店としての評価で成り立っている店です。

テレビ番組が追った五十番の今

2019年の番組では、王貞治さんの次女でキャスターの王理恵さんが自ら現地へ足を運びました。

王理恵さんが語った動機は「父のルーツ・五十番の今が知りたい。祖父がどんなラーメンを作っていたか知りたい」というものです。

取材で判明したのは、のれん分け店まで含めて本家の系統が途絶えていたという事実でした。

その一方で、同じ墨田区内の洋食50BANには仕福さん譲りのラーメンが今もメニューに残っていたのです。

650円という素朴な一杯を口にした王理恵さんは「おいしい」と何度も繰り返しました。

そして「まさに父が好きそうなラーメンだと思う。おじいちゃんが作り上げた味だと思うと、ジーンと来る」としみじみ話しています。

孫が祖父の味に初めて出会う場面ですから、これは胸に来ますよね。

王貞治さんの実家の味は、形を変えながらきちんと八広に残っていたことになります。

この放送は2019年5月10日で、偶然ながら王貞治さんの生誕日と同じ日付でした。

番組内では、のれん分け店の関五一さんが90歳まで営業を続けていたことも明らかになっています。

肉親が訪ねて初めて判明した事実というのが、いくつもあったわけです。

実家の歴史は、身内であっても調べ直さないとわからなくなるものなんですね。

噂と事実を対比表で整理

以下の表で、よく語られる噂と確認できる事実を整理してみます。

噂・よくある疑問 確認できる事実
実家のラーメン屋は今もある 本家の五十番は1965年に閉店。屋号を継ぐ洋食50BANが現存
のれん分けの五十番は営業中 関五一が90歳まで続けたが数年前に閉店
福岡の五十番食品は実家の系列 無関係。店名にあやかって命名されただけ
洋食50BANは他人の店 いとこの川口俊幸が経営する親族の店
実家は福岡にあった 生まれも育ちも東京都墨田区

こうして並べると、実家は消えたが屋号と味は親族の手で残った、という構図が見えてきます。

とくに混同されやすいのが、福岡と東京の五十番です。

王貞治さんが福岡ソフトバンクホークスの監督や会長を長く務めたことで、福岡の店と結びつけて語られやすくなりました。

しかし実家はあくまで東京都墨田区にあった店で、福岡に実家があったことは一度もありません。

もう一つ注意したいのは、現存する洋食50BANを本家そのものだと考えてしまう誤解です。

50BANは創業の地を母方の親族が受け継いだ店であり、王一家が直接営んだ店舗ではありません。

系統としてはつながっていますが、経営主体は別だという整理になります。

ここを押さえておけば、実家に関する情報のほとんどは迷わず読めるようになりますよ。

のれん分けした関五一の五十番

王貞治さんの実家を語るうえで欠かせないのが、父親の一番弟子だった関五一さんの存在です。

ここでは、のれん分けされたもう一つの五十番の歩みを、信頼性の高い記録から整理してお伝えします。

一番弟子に受け継がれた屋号

1962年、仕福さんと登美さんが押上の店を閉じて新宿へ移る際に、大きな決断がありました。

一番弟子の関五一さんへ五十番の屋号をのれん分けしたのです。

関五一さんが店を構えたのは業平四丁目で、住所は東京都墨田区業平4-8-6でした。

このとき引き継がれたのは屋号だけではありません。

電話番号ごと受け継いだという記録が残っています。

師匠の店に電話をかけた常連客が、そのまま弟子の店につながる仕組みです。

師弟のあいだにどれだけ強い信頼があったのか、これだけでも十分伝わってきますよね。

押上駅から四つ目通りを南に歩いた裏路地にあり、外から見る限りは普通の街の中華屋という佇まいでした。

看板に王貞治の王の字はなく、頭上に飾られた写真の一枚に王貞治さんと関五一さんが笑顔で並んでいるだけだったといいます。

のれん分けという形式を選んだこと自体に、仕福さんの考え方が表れています。

店を売り払って終わりにするのではなく、腕を認めた弟子に名前ごと渡したわけです。

引き継いだ関五一さんも、その期待に90歳まで応え続けました。

師匠が1965年に引退した後も、弟子の店で五十番の味が出され続けたことになります。

こういう受け渡し方は、料理人の世界らしくて気持ちのいい話ですよね。

王少年が好んだ肉そばの正体

この店で語り継がれていた名物が「肉そば」です。

これは王少年が野球の練習後に好んで食べたとされる一品でした。

見た目はタンメンそっくりで、タンメンに乗っている野菜を肉野菜炒めに置き換えた感じと説明されています。

ラーメンだけでは物足りない、野菜も肉もしっかり食べさせたい。

育ち盛りの王少年を思う仕福さんや関五一さんの気持ちが、そのまま料理の形になったのがこの肉そばだったわけです。

実際に食べた人は「そんな優しくてどこか懐かしい気持ちにさせてくれる」と書き残しました。

868本の本塁打を打った体をつくったのは、この一杯だったのかもしれません。

食べ物の記憶が家族の記憶とつながっているというのは、実家の話らしくて好きなエピソードです。

肉そばという名前はシンプルですが、中身は野菜と肉を両方しっかり食べさせる構成でした。

当時の王少年は、業平小学校や本所中学校で野球に打ち込む毎日を送っていました。

練習から帰ってきた子供に出す一杯としては、これ以上ない献立だったはずです。

メニューとして残り続けたということは、他の客にも支持されていた証拠でもあります。

家庭の食卓がそのまま店のメニューになった、珍しい例と言えるかもしれません。

関五一の店は数年前に閉店

では、このもう一つの五十番は今どうなっているのでしょうか。

残念ながら、関五一さんの五十番もすでに閉店しています。

関五一さんは90歳まで店を続けましたが、2019年の報道時点で数年前に閉店していたことが明らかになりました。

現地を訪ねた探訪記では、店主が関五一さんの息子さんに代替わりしていたと書かれています。

つまり二代にわたって屋号を守ったあと、静かに歴史を終えたということです。

ちなみに関五一さんの名前にある五一は、五十番の一つ次である51にあたります。

師匠の店の名前と弟子の名前が数字で並ぶというのは、たしかに偶然としては出来すぎていますよね。

本家と弟子の店がどちらも幕を下ろしたことで、現在残る五十番の系統は洋食50BANだけになりました。

店の住所は東京都墨田区業平4-8-6で、営業時間は11時から15時まででした。

押上駅から四つ目通りを南へ歩いた裏路地という、観光客が迷い込みにくい場所です。

それでも王貞治さんの実家の味を求めて訪ねる人は少なくありませんでした。

閉店によって、本家の系統を直接たどれる店はひとつもなくなりました。

行こうと思っていた方には残念な結末ですが、八広の50BANが唯一の手がかりとして残っています。

福岡の五十番食品との関係

検索すると「王貞治 中華料理 福岡」という関連キーワードが出てくるため、福岡の五十番食品についても整理しておきます。

結論から言うと、この会社は王貞治さんの実家とは血縁も資本関係もありません。

五十番食品の創業は1971年(昭和46年)で、創業者は王基樹さんという方です。

王基樹さんは博多区雑餉隈で「中華食堂 五十番」を始め、その後に餃子の製造へ事業を広げていきました。

社名の由来については、会社自身がはっきり説明しています。

「父が大好きだった野球の王貞治さんのご実家の五十番という中華食堂に由来している」という記述です。

つまり偶然の同姓であり、屋号はファン心からあやかったものでした。

同じ王という姓で、同じ五十番という屋号だと、どうしても親族だと思ってしまいますよね。

ここは混同しやすいポイントなので、別の一族の会社としてはっきり区別しておきましょう。

五十番食品はその後、1974年12月に春日市で有限会社として設立されました。

最初は餃子の具と皮を近所のラーメン店に卸す仕事から始め、やがて肉屋や大手スーパーにも広げています。

創業当時のメンバーは父と母と従業員2名の計4名だけだったそうです。

小さく始めて事業を広げたという流れは、東京の五十番とよく似ていますね。

王貞治の実家の家族構成|父親と母親の人物像

  • 父親・王仕福の生い立ちと職業
  • 母親・登美の生い立ちと人物像
  • 双子の姉・広子と王家の家族構成
  • 仮死状態で生まれた幼少期の日々
  • 業平小から早稲田実業までの学歴

父親・王仕福の生い立ちと職業

王貞治さんの実家を形づくったのは、中国から単身で日本へ渡ってきた父親の王仕福さんです。

ここでは仕福さんの出身地から来日の経緯、そして国籍の話まで、あなたが納得できる形で順番に整理します。

浙江省青田県四都という寒村

下記の表は、父親の王仕福さんに関する情報をまとめたものです。

項目 内容
名前 王仕福(おう しふく)
出身地 中国・浙江省青田県四都
生まれた時代 日本では明治時代
来日時期 20歳頃(大正時代の初め頃)
来日直後の仕事 東京の町工場勤め
職業 中華料理店「五十番」店主
国籍 中華民国籍
引退 1965年に料理人を引退

仕福さんが生まれた四都は、都という漢字がついているものの実際はかなりの山村でした。

川の対岸に渡る橋はなく、医者にかかるにもいくつも山を越えなければならないほどの寒村だったと伝えられています。

そのため戦前から多くの村人が日本やヨーロッパへ移住していた土地でもありました。

王家の祖籍はこの浙江省であり、台湾島とのゆかりはまったくありません。

この青田県という土地は、古くから海外へ人を送り出してきた地域として知られています。

橋のない川、山を越えなければ医者にかかれない環境、そして限られた耕地。

そうした条件が重なれば、若者が村を出るという選択は自然なものになります。

仕福さんもその流れに乗って日本へ渡った一人でした。

王貞治さんの祖籍がこの浙江省であるという点は、国籍の話を理解するうえでも重要です。

台湾島とのゆかりがまったくないというのは、ここから導かれる結論ですよ。

20歳頃に日本へ渡った経緯

仕福さんが日本へ渡ったのは20歳頃、大正時代の初め頃のことです。

頼ったのは、先に日本へ来ていた親類縁者でした。

いきなり単独で飛び込んだのではなく、同郷のネットワークをたどって来日したという流れになります。

落ち着いた先は、浙江省からの出稼ぎ者のコミュニティがあった東京・墨田区一帯でした。

最初は町工場に勤めていましたが、いつしか料理を覚えて中華料理店を譲り受けるまでになります。

その後の仕福さんと登美さんの働きぶりは、近所の人が驚くほど真面目なものでした。

最初は何坪もない広さだった店から二号店を出すまでに事業を拡大していきます。

さらに中華料理だけでなく、カツライスやカレーといった洋食も手がけ、喫茶コーナーまで併設するようになりました。

知り合いの医者の診療所まで同じ屋根の下に入り、ちょっとした複合施設のようになっていたといいます。

来日の時期が大正時代の初め頃というのも見逃せません。

この時代の日本は、まだ中国からの渡航者を受け入れる窓が比較的開いていました。

そして落ち着いた向島区と本所区は、同郷の人が頼り合える環境がそろっていた土地です。

結果として仕福さんは、日本で家庭を持ち店を持つところまで到達しました。

ヤミ物資の仕入れと迫害の時期

一方で、仕福さんの人生には苦難の時期も確実にありました。

戦中・戦後の物資のない時期には、配給品だけではとても商売になりませんでした。

そこで仕福さんは千葉方面などへ自ら仕入れに出かけるようになります。

ただしそれはヤミ物資だったため、何度も没収される目に遭ったと伝えられています。

それでもめげずに何度も仕入れに出かけたというのですから、相当な胆力です。

さらに深刻だったのが、中国出身であることによる風当たりでした。

1923年(大正12年)の関東大震災のあとは外国出身者へ向けられる目が厳しくなり、仕福さんも中国へ帰らざるを得なくなった時期があります。

戦時中には収容所のような所に入れられていた時期もあったとされ、その不在のあいだは登美さんが一人で店を守りました。

実家の繁盛の裏側に、こうした歴史があったことは押さえておきたいところです。

千葉方面まで足を運んだというのは、当時としては相当な距離の移動です。

鉄道も混み合い、荷物の持ち込みも厳しく取り締まられていた時期でした。

それでも店の暖簾を下げないために、仕福さんは仕入れをやめませんでした。

この粘りがあったからこそ、1945年11月の営業再開が実現したと言えます。

中華民国籍を選び続けた理由

王貞治さんの国籍について疑問を持つ方も多いので、ここで整理しておきます。

王貞治さんの国籍は父親と同じ中華民国籍です。

日本国籍への帰化も、中華人民共和国籍の取得も、世界のホームラン王という立場では政治的な意味を帯びてしまいます。

それを危惧して、父親の中華民国籍のままでいるという選択をしてきました。

台湾人と表現されることもありますが、これは中華民国と台湾が混同されやすいことによる誤解です。

前述の通り、王家の祖籍は浙江省であり台湾島とのゆかりはありません。

海外メディアから日本人かと問われたとき、王貞治さんはこう答えています。

「父は中国人だが、母は日本人です。私は生まれたときより日本で育ち、日本の教育を受け、日本のプロ野球人として人生を送ってきました。疑うことなく日本人です」という言葉です。

書類上の国籍と、本人が語るアイデンティティ。

この二つを分けて受け取るのが、いちばん誠実な理解なのかなと思います。

名前の中国読みはワン・ツェンツーで、日本では一貫して王貞治と呼ばれてきました。

父親の国籍を引き継ぎながら、日本で生まれ日本で育った人物。

この二重性そのものが、実家のありようをそのまま映しているのかなと思います。

母親・登美の生い立ちと人物像

公開されている資料をたどると、母親の登美さんは相当な苦労人であり、同時に実家の屋台骨そのものでした。

ここでは富山での生い立ちから、結婚にまつわる事情、そして店を守り抜いた働きぶりまでを整理します。

富山の漆塗り職人の長女として

下記の表は、母親の登美さんに関する情報をまとめたものです。

項目 内容
名前 登美(とみ)
出身地 富山県
実家 漆塗り職人の家
家族内の立場 長女
父親の仕事 石川県の特産品である輪島塗の仕事を請け負う職人
上京の理由 東京へ奉公に出るため
職業 中華料理店「五十番」の女将
弟 川口二郎(吾嬬町の五十番を継ぐ)

登美さんは富山県の漆塗り職人の長女として生まれました。

父親、つまり王貞治さんの祖父は、石川県の特産物である輪島塗の仕事などを請け負っていた職人でした。

伝統工芸の技術で家族を支える家に生まれ育ったことになります。

王貞治さんのルーツには、中国の山村と北陸の職人の家という二つの血筋が流れているわけですね。

輪島塗は石川県の特産品として知られる漆器で、分業で仕上げられる工芸です。

登美さんの父親はその工程の仕事を請け負っていた職人でした。

手仕事で生計を立てる家ですから、注文があるかどうかで暮らしが左右されます。

そうした家の長女として、登美さんは幼いころから家の手伝いに慣れていたはずです。

のちに中華料理店の女将として店を回せたのも、この下地があったからでしょう。

北陸の職人の家と東京の中華料理店という組み合わせは、言われてみると意外ですよね。

19歳で家の主になった苦労

ところが登美さんの少女時代は、決して穏やかなものではありませんでした。

働き盛りだった父親が亡くなり、まもなく母親も後を追うようにして亡くなってしまったのです。

残されたのは長女である登美さんと、弟妹たちでした。

そのため登美さんは19歳で家の主となり、弟妹の生活を支えなければならなくなります。

そして生活のために東京へ奉公に出ることになりました。

19歳で一家の生計を背負って上京するというのは、現代の感覚で考えると相当な重さですよね。

この時期に培われた働きぶりが、のちに五十番を大店へ育てる原動力になったと見ていいでしょう。

ちなみにこのとき支えた弟のひとりが川口二郎さんで、のちに吾嬬町の五十番を引き継ぐことになります。

父親が働き盛りで亡くなり、続けて母親も世を去るという二重の不幸でした。

残された弟妹を食べさせるには、長女が稼ぎ手になるしかありません。

そこで選んだのが、東京へ奉公に出るという道でした。

当時の奉公は住み込みで働く形が一般的で、生活のすべてを勤め先に預けることになります。

その環境で身につけた働きぶりが、後の五十番を支える力になりました。

弟の川口二郎さんが戦後に店を引き継いだのも、この姉弟の絆があったからですよね。

結婚を許されなかった夫婦

登美さんと仕福さんは、この東京で出会いました。

二人は一緒に暮らし始め、1928年には五十番を買い取って商売を始めています。

ところが戸籍の上では、長いあいだ夫婦になれませんでした。

理由は仕福さんが外国人であることを理由に、親族や周囲の人から正式な結婚を許してもらえなかったからです。

事実上の夫婦として店を切り盛りし、子供も生まれているのに、婚姻届が出せない状態が続いたことになります。

そして終戦後になって、ようやく正式に結婚することができたと伝えられています。

創業から20年近く、実質的な夫婦でありながら制度の外に置かれていたわけです。

この話を知ると、王貞治さんの実家が背負っていたものの重さが違って見えてきますよね。

1928年に店を買い取り、1940年には子供も生まれています。

それでも婚姻届が出せないまま、二人は十数年を一緒に過ごしました。

国籍の違いが、制度の上でこれだけの壁になっていたということです。

正式に結婚できたのは終戦後で、創業からは実に20年近くが経っていました。

この間、登美さんは周囲の目を受けながら店の表に立ち続けたことになります。

王貞治さんの国籍の話を知るうえでも、この夫婦の事情は外せない背景ですよ。

店を守り抜いた働きぶり

登美さんの存在が決定的だったのは、仕福さんが店にいられない時期があったからです。

関東大震災後に仕福さんが中国へ帰らざるを得なかった時期、そして戦時中に収容所のような所に入れられていた時期。

その仕福さんが不在のあいだ、登美さんが一人で店を守り続けました。

二人そろっての働きぶりは近所の人が驚くほど真面目で、何坪もない店から二号店を出すまでに事業を広げています。

最盛期の押上の五十番は、従業員50名を抱えるほどの規模でした。

そして1962年に新宿へ転居し、1965年に店を閉じるまで、登美さんは一貫して五十番の女将として立ち続けました。

実家を支えた本当の柱は母親だった、と言ってもいいのかなと思います。

王貞治さんの粘り強さのルーツは、案外この母親譲りなのかもしれませんね。

とくに戦時中は、夫が不在のまま店を回すという状況でした。

配給だけでは足りない食材、空襲の危険、そして外国出身の家族への風当たり。

その全部を抱えながら、登美さんは暖簾を下げませんでした。

1945年3月に焼失した店を同年11月に再開できたのも、この粘りがあってこそです。

実家を語るとき、母親の存在をいちばん大きく見ておくのが正しいのだろうと思います。

双子の姉・広子と王家の家族構成

1940年5月10日、五十番の二階で生まれたのは一人ではありませんでした。

ここでは双子の姉である広子さんの話と、公開資料で確認できる王家の家族構成を整理してお伝えします。

双子の姉として生まれた広子

墨田区の郷土資料には、こう記されています。

1940年5月10日、東京府向島区吾嬬町西の中華料理店「五十番」に双子が生まれたというのです。

父は王仕福さん、母は登美さん。

そして双子の赤ちゃんの姉は広子、弟は貞治と名付けられました。

つまり王貞治さんは、ひとりっ子として生まれたのではなく双子の弟として生まれたことになります。

この事実は意外と知られていないポイントです。

五十番という店の二階で、同じ日に二人の赤ちゃんが産声を上げた光景を想像すると、なんとも賑やかですよね。

王家にとっては、創業から12年目にあたる年の出来事でした。

この双子が生まれたのは、1938年に建てた二階建ての店舗でした。

店の二階が住居になっていたため、文字どおり中華料理店の中で生まれたことになります。

母親の登美さんはこのとき入院しており、病室で読んだ本から弟の名前を決めました。

姉の広子さんという名前の由来については、公開されている資料に記述が見当たりません。

双子という事実そのものも、墨田区の郷土資料でなければ確認しにくい情報です。

王貞治さんを語る記事でも触れられることが少ない部分なので、ここは押さえておきたいところです。

墨田区の展示でも、この双子の誕生が五十番物語の出発点として紹介されました。

広子は1歳3カ月で亡くなった

ところが、この双子の物語には早すぎる別れが待っていました。

姉の広子さんは、1歳3カ月で病気のために亡くなってしまったのです。

そして郷土資料にはとても印象的な一文が続きます。

生まれたときは半ば仮死状態で、しばらく病弱だった貞治さんが、広子さんが亡くなるとその代わりにみるみる元気になっていったというのです。

双子のうち弱かったほうが生き残り、強かったほうが先に逝ってしまった。

そう聞くと、運命という言葉を使いたくなります。

後に868本の本塁打を打つ身体が、このとき姉と入れ替わるようにして作られていったのかもしれません。

ここ、しみじみしてしまうエピソードですよね。

広子さんが亡くなったのは、計算すると1941年の夏ごろにあたります。

原因は病気とされており、当時の乳幼児にとっては珍しくない出来事でした。

一方の貞治さんは、生まれた直後こそ届け出を遅らせるほど危うい状態でした。

それが姉を失ったあとに健康を取り戻していくという、不思議な経過をたどります。

この話は墨田区の資料に明記されており、推測ではなく記録として残っているものです。

家族にとっては、喜びと悲しみが同時に訪れた一年半だったはずです。

双子の片方を失った両親の心情については、資料も多くを語っていません。

王家の家族構成を表で整理

以下の表は、公開資料で名前まで確認できる王家の人物を整理したものです。

続柄 名前 備考
父親 王仕福 中国・浙江省青田県四都出身の料理人
母親 登美 富山県出身。漆塗り職人の長女
双子の姉 広子 1歳3カ月で病気のため死去
本人 王貞治 双子の弟として1940年5月10日に誕生
母方の叔父 川口二郎 1946年に吾嬬町の五十番を引き継ぐ
母方の叔母 川口志津子 二郎の妻として吾嬬町の店を支える
いとこ 川口俊幸 洋食50BANを経営

この表に挙げたのは、あくまで実家に関する公開資料で名前が確認できる範囲です。

裏を返せば、王貞治さんの実家の物語は母方の川口家と切り離せないということでもあります。

この表で注目したいのは、父方の親族の名前がほとんど出てこないという点です。

父親の仕福さんは中国の浙江省から単身で日本へ渡ってきた人でした。

親類縁者を頼って来日したとはいえ、日本で家族として記録に残るのは仕福さん本人だけです。

対して母方は、弟夫妻からその子の代まで名前が確認できます。

そして実家の屋号を現在まで残したのも、この母方の川口家でした。

実家の歴史を追いかけると、自然と母方の系統をたどることになるわけです。

この偏りは、来日第一世代の家庭によく見られる特徴でもあります。

母方の親族と洋食50BAN

ここで家族構成と店の系統を結びつけて整理しておきましょう。

創業の地にあった吾嬬町の五十番を引き継いだのは、母親の登美さんの弟である川口二郎さん夫妻でした。

そしてその店が1969年に洋食へ業態を変え、現在の洋食50BANになっています。

この店を経営しているのが、王貞治さんのいとこである川口俊幸さんです。

つまり現存する唯一の五十番は、父方ではなく母方の親族が守ってきた店ということになります。

現地を訪ねたブログの筆者も、店を切り盛りしている人を見て「王さんの母方のご親族であろうか」と書き残していました。

外から見ただけでは何の店かわからず、壁に飾られた王選手の写真を目にしなければ経緯には気づかないとも記しています。

看板を掲げて売り込まないところが、かえって実家らしい佇まいだなと思いますよ。

創業の地の店は、川口二郎さん夫妻から親族の手へと受け継がれてきました。

中華料理から洋食へ業態を変えてもなお、仕福さん譲りのラーメンを残しているのが特徴です。

つまりこの店は、洋食店でありながら実家の味の保管庫にもなっています。

親族だからこそ残せたメニューという見方もできますよね。

八広という創業の地で営業を続けている点も、系統を考えると大きな意味があります。

仮死状態で生まれた幼少期の日々

結論から言うと、王貞治さんは生まれた瞬間から順風満帆だったわけではありません。

ここでは誕生日のずれ、名前の由来、そして病弱だった幼少期について、記録に残る形で整理していきます。

出生届が5月20日になった理由

王貞治さんの誕生日は、一般には5月20日として知られています。

ところが墨田区の郷土資料は、実際の生誕日は5月10日であるとはっきり補足しています。

では、なぜ10日のずれが生じたのでしょうか。

答えは、5月20日が出生届を出した日だからです。

そして届け出が遅れた理由は、生まれた貞治さんが極度に病弱だったためすぐに出生届を出さなかったことにあります。

無事に育つかどうかわからない状態だったので、届け出を待ったということですね。

墨田区の展示では、実際に生まれた日を採用して5月10日と記されました。

生年月日の数字ひとつに、ここまでの事情が隠れているのは驚きですよね。

記録の上で誕生日が二つ存在するというのは、なかなか珍しいケースです。

野球選手としての公式な生年月日は1940年5月20日で通っています。

一方で墨田区の郷土資料は、実際に生まれた日である5月10日を採用しました。

展示では実際に生まれた日といたしました、という補足まで添えられています。

この10日間の差が、生まれたときの危うさをそのまま表しているわけです。

実家が商売をしていたため、届け出の手続きも後回しになりやすかったのかもしれません。

資料を読み比べるときは、どちらの日付を採った記述なのか確かめるのが安全ですよ。

貞治という名前の由来

では、貞治という名前はどこから来たのでしょうか。

名付けの由来は、母親の登美さんが入院中に読んだ本にありました。

その本のタイトルは「出世物語」で、貞治という名前はその主人公の名前から取られたのです。

双子の出産のために入院していた母親が、病室で読んだ物語の主人公。

そこから名前をもらった子供が、のちに通算868本塁打という世界記録を打ち立てることになります。

出世物語という書名を知ってしまうと、もう偶然とは思えなくなりますよね。

ちなみに名前の中国読みはワン・ツェンツーです。

父親の中国と母親の日本、その両方を背負った名前だったと言えます。

母親の登美さんは双子の出産のために入院していました。

入院先で読んだ本から名前を決めたという経緯は、墨田区の資料にはっきり記されています。

主人公の名前をそのまま息子に付けるというのは、わが子の将来への願いそのものです。

そして実際に、その子は初の国民栄誉賞を受賞するところまで到達しました。

通算868本塁打という記録も、名付けの願いをはるかに超えた結果です。

名前の由来がここまできれいに回収される例は、そうそうないですよね。

母親が病室で選んだ名前が、そのまま日本野球史に刻まれることになりました。

病弱だった少年が元気になるまで

誕生時の状況について、資料は踏み込んだ記述を残しています。

貞治さんは半ば仮死状態で生まれ、しばらくは病弱だったというのです。

双子のきょうだいのうち、姉の広子さんのほうが丈夫に見えていたのでしょう。

ところが広子さんが1歳3カ月で病気のため亡くなると、その代わりに貞治さんはみるみる元気になっていきました。

このあたりの記述は、郷土資料としては珍しいほど情感がこもっています。

そして小学4年生になると、自分でクラスに野球チームを作ってエースで4番を務めるまでになりました。

仮死状態で生まれた子が、十年ほどで近所に名を知られる野球少年になったわけです。

この回復ぶりこそ、王貞治さんの人生最初の逆転劇なのかなと思います。

仮死状態で生まれたという記述は、墨田区の郷土資料に残るものです。

そのため出生届も5月20日まで出されませんでした。

姉を失ったあと、貞治さんはみるみる元気になっていったと記録されています。

そして小学校に上がる頃には、近所で野球がうまいと評判になるまでになりました。

4年生でクラスの野球チームを立ち上げ、エースで4番を務めるほどの成長ぶりです。

病弱だった時期を知る人ほど、この変化には驚いたはずですよね。

店の二階で育った子供時代

王貞治さんの子供時代を語るうえで外せないのが、生活の場が店そのものだったという点です。

生家は1938年に建てた二階建ての店舗で、20坪の土地に構えた中華料理店でした。

押上へ移ってからの五十番も、最盛期には従業員50名を抱える大店へ成長しています。

つまり少年時代の王貞治さんは、常に従業員や客が出入りする環境で育ったことになります。

その影響が形になったのが、小学5年生のときの出来事です。

王さんはお店で働く店員さんに後楽園球場へ連れて行ってもらい、巨人対中日戦を観戦しました。

これが初めてのプロ野球観戦で、のちの進路を決める決定的な一日になります。

家が商売をしていたからこそ、球場へ連れ出してくれる大人が身近にいたわけですね。

後楽園球場で見たのは巨人対中日戦で、これが初めてのプロ野球観戦でした。

このとき王さんは、巨人軍の与那嶺要選手にサインをもらっています。

他の選手がサインをしてくれない中で、与那嶺選手だけが快く応じてくれたそうです。

そして王さんがサインを断らないのは、この時の思いがあるからだとされています。

店で働く大人が子供を球場へ連れ出すという関係は、商売をしている家ならではのものです。

実家が中華料理店だったことが、思いがけない縁をつないだわけですね。

業平小から早稲田実業までの学歴

1947年4月、王貞治さんは小学校に入学します。

ここでは教室不足に振り回された小学校時代から、甲子園を沸かせた早稲田実業時代までを、年号とともに整理してお伝えします。

柳島小に間借りした1、2年生

以下の表は、王貞治さんの学歴と各時期のエピソードをまとめたものです。

学校 在籍時期 主なエピソード
柳島小学校(間借り) 1947年4月から2年間 業平小の教室不足により二部授業を受ける
業平小学校 3年生から1953年 4年でクラス野球チームを作りエースで4番
本所中学校 1953年から1956年 砲丸投げで都大会出場。野球部を再開
早稲田実業高校 1956年から1959年 入学2週間でレギュラー。甲子園に4度出場

王貞治さんが住んでいた業平地域は、業平小学校の学区域でした。

ところが当時の業平小学校には、戦争で罹災した工場が間借りしていたうえ児童数も多く、教室が足りていませんでした。

そのため1年生と2年生は柳島小学校に間借りをした上、さらに二部授業という状態だったのです。

王さんも籍は業平小学校に置きながら、1年と2年のあいだは柳島小学校へ通学し、3年生から業平小学校へ通いました。

二部授業というのは、児童を午前と午後に分けて教室を使い回す方式です。

戦後の教室不足を乗り切るために、各地で採られていた苦しい運用でした。

王貞治さんの学校生活は、その混乱のただ中から始まったことになります。

籍は業平小学校のまま別の校舎へ通うという、ややこしい2年間でした。

本所中学校で野球部を再開

1953年、業平小学校を卒業した王さんは本所中学校に入学します。

意外なのは、入学当初に打ち込んだのが野球ではなかったことです。

王さんは卓球部や陸上部で活躍し、陸上部では砲丸投げの選手として都大会にも出場するほどでした。

そして2年生のとき、それまで休部になっていた野球部を自ら再開させます。

その成果は3年生で形になり、区大会で優勝して都大会にも出場しました。

さらに近所にあった大人の野球チーム「厩四ケープハーツ」にも入り、エースで5番を務めています。

中学生が大人のチームで主軸を張っていたのですから、評判になるのも当然ですよね。

この本所中学校には、現在も王貞治さんの自筆による「気力」の記念碑が建てられています。

卓球と陸上から始まり、砲丸投げで都大会まで進むという経歴は意外ですよね。

投げる動作と押し出す動作の両方を鍛えたことが、後の打撃にも生きたはずです。

そして休部中の野球部を自分で立ち上げたという行動力も見逃せません。

2年生で再開し、3年生で区大会優勝と都大会出場まで持っていきました。

さらに大人のチームである厩四ケープハーツでもエースで5番を務めています。

中学生の時点で、すでに地域で知られた選手になっていたわけです。

早稲田実業と甲子園4度の出場

「野球がうまい」と近所で評判だった王さんは、高校野球の名門である早稲田実業へ進学しました。

1956年のことです。

新入生だけでも80人近くいた環境でしたが、入学から2週間でレギュラーの座をつかみ、5番でレフトを守りながら控えの投手も務めました。

そして5月3日の関東高校野球春季大会都予選決勝では、選抜の代表校だった日大三高を相手に投手として4対0の完封勝ちを収めています。

その後は夏の東京都予選で優勝し、甲子園への切符を手にしました。

下記の表は、甲子園での戦績を整理したものです。

大会 戦績
1956年夏 2回戦で県立岐阜商業に敗退
1957年春 決勝で高知商業に5対3で勝ち早実初優勝
1957年夏 1回戦の寝屋川高戦でノーヒットノーランを達成
1958年春 3回戦で済々黌高に敗退。30年ぶりの2試合連続本塁打

1957年春の甲子園では、エースで四番打者として出場しました。

決勝の高知商業戦を5対3で制し、早稲田実業に初の全国優勝をもたらしています。

そして1957年夏には、1回戦の寝屋川高戦でノーヒットノーランを達成しました。

春夏あわせて4回の甲子園出場という実績は、当然プロ野球のスカウトの目にとまります。

1958年春の甲子園では、30年ぶりとなる2試合連続本塁打という活躍も見せました。

学歴と甲子園成績を表で整理

ここまでの歩みを振り返ると、王貞治さんの学歴はすべて墨田区と早稲田実業で完結しています。

小学校も中学校も地元の公立校で、進学したのは高校野球の名門でした。

そして1958年8月31日、親族会議によって巨人軍入団が決定します。

自宅で巨人の宇野代表を交えて発表が行われたという点が、いかにも実家中心の決め方で印象的です。

さらに10月4日の東京会館での正式入団発表には、親族一同が出席するという珍しい形になりました。

実家の家族ぐるみでプロ入りを決め、家族ぐるみで発表の場に立ったわけですね。

前述の通り、小学5年生の初観戦で巨人の与那嶺要選手にサインをもらった経験も、入団に影響したと資料は指摘しています。

与那嶺さんは「目の大きな子供が軟球を差し出していました。だれもサインをしてあげなかったので、僕がしたことは覚えています」と振り返っており、王さんがサインを断らないのはこの時の思いがあるからだとされています。

進学先の早稲田実業を含めても、通学範囲はすべて東京都内に収まっています。

実家の商売を続けながら、息子を名門校へ進ませたことになります。

そして巨人軍入団を親族会議で決めたという点に、この家の結束が表れていますよね。

王貞治の実家に関するまとめ

  • 実家は東京都墨田区八広にあった中華料理店の五十番だ
  • 五十番は1928年に屋号ごと居抜きで買い取り創業した
  • 生家は現在の八広3-38-8付近に建てた二階建ての店舗
  • 父親は中国の浙江省青田県四都という山村の出身である
  • 母親の登美は富山県の漆塗り職人の家に生まれた長女だ
  • 登美は19歳で家の主となり東京へ奉公に出された苦労人
  • 両親は国籍の壁により終戦後にようやく正式に結婚した
  • 双子の姉の広子は1歳3カ月で病気のため死去している
  • 本人は仮死状態で生まれ幼少期はかなりの病弱児だった
  • 届出が遅れたため一般には誕生日が5月20日とされる
  • 押上の第二五十番は従業員50名を抱える大店に成長した
  • 本家の五十番は1965年に37年の歴史を閉じている
  • 一番弟子の関五一に継がれた五十番も数年前に閉店した
  • 創業の地は洋食50BANとして八広で営業を続けている
  • 福岡の五十番食品は実家とは無関係で別の一族の会社だ

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