オノヨーコの実家は安田財閥系の名門|麻布の豪邸と波乱の生い立ち

オノヨーコの実家は安田財閥系の名門|麻布の豪邸と波乱の生い立ち

※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
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オノ・ヨーコさんの実家が、日本を代表する名門財閥と深いつながりを持つことをご存じでしょうか。

ジョン・レノンの妻として世界中で知られる伝説的なアーティストですが、その出自はというと、安田財閥系の超名門一族というルーツを持っています。

東京・麻布の高級住宅街で生まれ育ち、旧自宅は現在フィリピン大使公邸として使われているほどの豪邸でした。

この記事では、オノ・ヨーコさんの実家の家柄や父親・母親の背景、幼少期のエピソード、そして実家環境がいかに彼女の芸術家人生に影響を与えたかを詳しく掘り下げていきます。

記事のポイント

①:実家は安田財閥系の超名門一族

②:旧自宅は現在フィリピン大使公邸の豪邸

③:12歳で東京大空襲を目撃し疎開を経験

④:3度の結婚を経て波乱の人生を歩む

オノヨーコの実家は安田財閥系の名門だった

  • 実家が安田財閥系名門と言われる根拠
  • 父親・小野英輔の経歴と転勤続きの幼少期
  • 母親の家柄と名門意識のプレッシャー
  • 東京・麻布の高級住宅街で育った生い立ち
  • 旧自宅がフィリピン大使公邸になった豪邸の実態
  • 東京大空襲と実家を離れた疎開の記憶

実家が安田財閥系名門と言われる根拠

 

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オノ・ヨーコさんが「財閥の令嬢」と呼ばれることがありますが、それは単なる噂や誇張ではありません。

母親の家柄が、日本の近代史においても特に著名な財閥グループと直接つながっているのです。

項目 内容
本名 小野洋子
生年月日 1933年2月18日
2026年04月04日現在の年齢 93歳
出身地 東京都
国籍 日本(のちにアメリカ国籍取得)
職業 芸術家・歌手・平和活動家
父親 小野英輔(銀行家・元クラシックピアニスト)
母親 安田財閥系の名門家柄出身
結婚歴 一柳慧(1956年)→アンソニー・コックス(1963年)→ジョン・レノン(1969年)
子供 娘・キョーコ(コックスとの間)、息子・ショーン・レノン(レノンとの間)
現在の居住地 ニューヨーク州フランクリンの農場

安田財閥との具体的なつながり

オノ・ヨーコさんの母親は、当時日本最大級の財閥のひとつを率いていた富豪一族の出身です。

安田財閥の創始者・安田岩次郎氏の姪にあたるとされており、この家柄の格式は当時の日本でも屈指のものでした。

安田財閥といえば、明治・大正期の日本における金融・銀行業の雄として財界に絶大な影響力を持っていた一大グループです。

現在のみずほフィナンシャルグループの源流のひとつにも繋がる系統であり、その名声と資産規模は当時の日本でも指折りのものでした。

東京大学の安田講堂(現・東京大学大講堂)に名を残す安田家といえば、ピンとくる方も多いかもしれません。

オノ・ヨーコさんは母親の系統として、そういった名門財閥の血を引く家庭に生まれたわけです。

改めて聞くと、すごい家柄ですよね。

財閥系子女としての格式と重圧

財閥系の名門家庭に生まれたということは、単に裕福であるというだけではありません。

厳格な礼儀作法や振る舞い、社会的な品位を求められる環境に置かれることでもあります。

オノ・ヨーコさん自身も後に「名門家の一員としての振る舞いを求められることに反発を感じていた」と語っており、「それはすさまじいプレッシャーでした。反抗しない限り、私は生きていけなかったでしょう」という言葉を残しています。

この「すさまじいプレッシャー」こそが、後に彼女を前衛芸術家としての道へと駆り立てた一因になったと考えられます。

実家の財閥系という背景は、外から見れば華やかな特権に映るかもしれません。

しかし、オノ・ヨーコさんにとっては、自由に生きることへの大きな障壁でもありました。

この矛盾した環境の中で育ったことが、彼女の芸術的な表現の根底にある「自由への渇望」と深く結びついているのです。

少し意外に感じるかもしれませんが、華麗なる家柄が、かえって彼女の反骨精神を育てたとも言えます。

父親・小野英輔の経歴と転勤続きの幼少期

オノ・ヨーコさんの父親は、小野英輔さんという人物です。

幼少期は才能あるクラシックピアニストとして音楽の道を歩んでいましたが、やがて銀行員に転身した異色の経歴を持っています。

項目 内容
名前 小野英輔
職業 銀行家(元クラシックピアニスト)
転勤先 日本・サンフランシスコ・ニューヨーク・ハノイほか
戦時中の状況 中国の捕虜収容所に収容

銀行員に転身した経緯

小野英輔さんは、もともと音楽の才能に恵まれたピアニストでした。

クラシックピアニストとしての修業を積んだのちに銀行員へと転身しており、その後は銀行業務のキャリアを積んでいきます。

銀行員としての仕事は、当時の日本では地位のある職業でした。安田財閥系の家庭と結びついたことで、小野英輔さんのキャリアも着実に積み上がっていったと考えられます。

音楽から金融へというユニークな転身は、後のオノ・ヨーコさんの「枠にとらわれない生き方」に、何らかの影響を与えていたかもしれません。

頻繁な転勤と海外生活

銀行員という職業柄、小野英輔さんは頻繁に転勤を繰り返しました。

日本はもちろん、サンフランシスコ・ニューヨーク・ハノイなどを行き来する生活で、家族もそれに伴って各地を転々としていました。

こうした転居がちな生活は、オノ・ヨーコさんが幼いころから「日本という枠組み」にとらわれず、国際的な視点を養う土台になっていったのでしょう。

実際、オノ・ヨーコさんは後にアメリカで前衛芸術家としてのキャリアをスタートさせますが、その柔軟さや国際感覚は、幼少期の多国間生活によって培われたものといえます。

また、オノ・ヨーコさんは3歳になるまで父親に会ったことがなかったと伝えられています。

父親の単身赴任中に生まれたためで、親子関係の形成においては特殊な環境にあったことが分かります。

このような「父親との距離感」が、彼女の芸術作品や人生観に影を落としている部分もあるかもしれません。

東京大空襲が起きた1945年当時、小野英輔さんはハノイに赴任しており、中国の捕虜収容所に入れられたとも伝えられています。

父親が不在のまま戦争を乗り越えなければならなかった家族の苦労は、想像を絶するものがあります。

母親の家柄と名門意識のプレッシャー

オノ・ヨーコさんの人生を語るうえで、母親の存在は欠かせません。

母親は安田財閥系という名門家柄の出身であり、家庭の中でも高い品格と礼節を重んじる姿勢を持っていたとされています。

安田財閥系一族としての自覚と教育方針

母親が安田財閥系の富豪一族の出身であるということは、子育てにも大きく影響していたはずです。

名門意識の高い家庭に育った母親が、娘であるオノ・ヨーコさんにも相応の品位や振る舞いを求めたであろうことは容易に想像できます。

日本の財閥系家庭における教育は、単なる学業の優秀さを求めるものではありません。

社交界での振る舞い、言葉遣い、人との付き合い方に至るまで、「名家の一員としての自覚」を骨の髄まで叩き込む厳しい環境でもあります。

オノ・ヨーコさんにとってそのプレッシャーは相当なものだったと、本人も語っています。

「反抗しない限り、私は生きていけなかったでしょう」という言葉は、母親をはじめとした名門家の重圧に対する、素直な本音だったのかもしれません。

母親との関係と戦時下の経験

戦時中、父親が海外赴任で不在の中、母親はひとりで子供たちを守る役割を担いました。

東京大空襲が起きた際には、母親が子供たちを連れて東京を脱出し、長野県の農村へと疎開を決断しています。

手押し車に入る荷物しか持てない状況で、行き先も資金も十分でないまま避難した体験は、母親にとっても過酷なものでした。

そして疎開先でも食糧難に直面し、母親は子供たちを飢えさせないために食料を無心したり、持ち物と交換するなどして生き延びたと伝えられています。

そんな母親の強さと苦労は、オノ・ヨーコさんの精神的な支柱にもなっていたのでしょう。

名門の出でありながら、戦争という極限状態を共にくぐり抜けた母と娘の絆は、特別なものがあったはずです。

財閥系の格式と、戦争の混乱という両極端な環境の中で母親と過ごした経験が、オノ・ヨーコさんという人間の複雑さと深みを形づくっていったと言えます。

東京・麻布の高級住宅街で育った生い立ち

オノ・ヨーコさんが幼少期を過ごしたのは、東京都内でも特に格式高いエリアとして知られる麻布地区です。

現在も外資系企業の駐在員や各国大使館が集まる高級住宅地であり、当時から日本を代表する上流階級の居住エリアでした。

麻布というエリアの特性

東京・麻布は明治時代から続く名門住宅街であり、財閥系や旧華族、外交官などが多く居住してきた地域です。

六本木ヒルズにも近く、現在でも港区の中でも特に地価が高い一帯として知られています。

この地で育ったということは、周囲には同じく名門家出身の子弟が多く、自然とその環境に溶け込んでいたことでしょう。

しかし同時に、そこには強い「上流階級のルール」が存在していました。

オノ・ヨーコさんが後に語った「名門家の一員としての振る舞いを求められることへの反発」は、こうした麻布での生活環境が背景にあります。

幼少期の日常と音楽への親しみ

小野家の子供たちは、幼いころから音楽に親しむ環境に置かれていました。

父親が元クラシックピアニストということもあり、幼少期からピアノを習っていたオノ・ヨーコさんは、音楽の素地を早い段階で身につけています。

また、母親に連れられて歌舞伎を観劇していたとも伝えられており、これが後に彼女がパフォーマティブな芸術表現へと向かっていく素地になったとも考えられています。

麻布という環境で、上流階級の子弟として学習院初等部などでの教育を受けながら、オノ・ヨーコさんは幼少期を過ごしていきます。

父親の転勤に伴って海外生活を経験する機会もあり、日本国内の閉じた世界に留まらない視野の広さを、少女時代から育んでいたのです。

麻布での生い立ちは、华やかな上流社会の一面と、そこに漂う息苦しさの両方をオノ・ヨーコさんに刻み込んだ、複雑な原体験だったと言えます。

旧自宅がフィリピン大使公邸になった豪邸の実態

オノ・ヨーコさんが子どものころに3年間を過ごした旧自宅が、現在フィリピン大使公邸として使用されているという事実があります。

NHKの「ファミリーヒストリー」でも取り上げられたことで話題になった、実家の豪邸ぶりをあらわす象徴的なエピソードです。

九段下にある広大な旧自宅

旧自宅があるのは、東京・九段下エリアです。

敷地面積はおよそ4,500平方メートルという広大なもので、現在でも都内でこれほどの敷地を持つ邸宅はそうそうありません。

門から見える建物の奥に敷地が広がっており、長い塀が続く外観からも、その規模の大きさが伝わってきます。

この旧自宅は後にフィリピン大統領が購入し、現在はフィリピン共和国の大使公邸として利用されているということが確認されています。

さらに驚くべきことに、この建物はフィリピン共和国の国家的歴史的建造物にまで指定されているのだそうです。

財閥系の財力が生んだ邸宅の格式

これほどの豪邸を構えられたのは、やはり安田財閥系という家柄の財力があってこそです。

明治・大正・昭和初期にかけて財閥が蓄積した資産規模は現代の感覚では想像しがたいものがあり、小野家もその恩恵を受けていたと考えられます。

現在、同建物の前に立つと、昭和初期の邸宅建築の趣が今も残っています。

窓枠の鉄格子がおしゃれな外観はそのままに、警備員小屋だけが後付けで設置されている様子から、大使公邸としての役割を今日も担い続けているのが見て取れます。

日本人アーティストの幼少期の家が、フィリピンの国家的建造物として後世に残っているという事実は、オノ・ヨーコさんの実家がいかに特別なものであったかを物語っています。

一般の方がふと近くを通りかかっても、ここがかつてオノ・ヨーコさんの実家であったとは気づかないかもしれませんが、確かにその歴史がこの地に刻まれているのです。

東京大空襲と実家を離れた疎開の記憶

オノ・ヨーコさんの幼少期を語るうえで、避けて通れないのが東京大空襲の体験です。

1945年3月、彼女は12歳でした。東京の高級住宅街・麻布に住んでいた一家に、突如として戦争の惨禍が降り注いできます。

東京大空襲の夜に何が起きたか

1945年3月9日から10日にかけて、アメリカ空軍のB-29爆撃機が東京に大量の焼夷弾を投下しました。

木造家屋が密集する下町一帯を中心に火の海となり、およそ10万人もの命が失われた、歴史上最も悲惨な空爆のひとつです。

その被害規模は、長崎の原爆をも上回るとも言われています。

この夜、オノ・ヨーコさんは熱を出して寝込んでいたため、避難する母親と兄弟から離れて寝室に残りました。

窓から街が破壊されていく悲惨な様子をひとりで眺めていたという体験は、彼女の心に生涯消えない傷跡を残しました。

オノ・ヨーコさん自身が後に「戦争のトラウマが私の人生に長い影を落とした」と振り返っていることからも、その体験がいかに深刻なものだったかがわかります。

長野への疎開と食糧難

空襲を生き延びた母親は、子供たちを連れて東京を脱出する決断をしました。

手押し車に入る荷物しか持てない状態で、手持ちの現金も行く当てもなく東京を後にし、長野県の農村にたどり着いたと伝えられています。

しかし、当時の日本のほとんどの地域がそうであったように、その農村もまた深刻な食糧難に直面していました。

母親は子供たちを飢えさせないために、食料を無心したり、持ち物を食料と交換するなどして日々をしのいでいたといいます。

名門財閥系の家柄に生まれながら、戦争によって一夜にして生存を賭けた逃避行を余儀なくされる。この落差は、幼いオノ・ヨーコさんの価値観に根本的な変革をもたらしたはずです。

「豊かさは一瞬で失われる」という感覚、そして平和への強い渇望は、この疎開体験を原点として生まれたとも言えます。

後にジョン・レノンとともに平和活動に力を注いだオノ・ヨーコさんの姿勢は、12歳の夏の記憶と無縁ではないでしょう。

父親は当時ハノイに赴任しており、終戦前後に中国の捕虜収容所に収容されたと伝えられています。

家族がバラバラになり、母親がひとりで子供たちを守り続けた戦時下の体験が、小野家の歴史に深く刻まれているのです。

オノヨーコの実家環境が生んだ国際的な活動

  • 学習院大学入学とアメリカ留学への道のり
  • 一柳慧との最初の結婚と前衛芸術への目覚め
  • ジョン・レノンとの運命的な出会いと3度目の結婚
  • ダコタハウスでの生活とジョン・レノン射殺事件
  • ニューヨーク農場への移住と現在の暮らし
  • 世界的アーティストとして再評価される足跡

学習院大学入学とアメリカ留学への道のり

 

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戦後、オノ・ヨーコさんは学業を再開し、名門校での教育を受けていきます。

安田財閥系の名門家庭の出身らしく、進学先もまた格式ある学校でした。

学習院大学への入学

学習院大学の哲学科に、初の女子学生として入学したというエピソードは、オノ・ヨーコさんの先進性と知的な側面を象徴しています。

学習院は旧皇族・華族のための教育機関として設立された歴史を持ち、現在も皇室とのつながりが深い名門校です。

財閥系の名門家庭と学習院は、当時の上流社会においてある種の必然的な組み合わせでもありました。

哲学科を選んだことは、単なる芸術家志向を超えた知的探求への渇望を示しており、後の前衛芸術活動における概念的・哲学的なアプローチの原点とも言えます。

サラ・ローレンス・カレッジへの留学

1952年ごろ、父親の転勤に伴って一家はニューヨーク州スカースデールに移住しました。

オノ・ヨーコさんはアメリカの女子リベラルアーツカレッジとして知られるサラ・ローレンス・カレッジに入学します。

ここで彼女は現代音楽の作曲家アルノルト・シェーンベルクらが確立した12音技法に親しみ、音楽的な知見を広げていきました。

また、幼少期から母親に連れられて歌舞伎を観劇していた経験が、ここでのパフォーマンス芸術への関心と結びついていったとも考えられています。

実家の財閥系という背景があったからこそ、当時まだ珍しかったアメリカへの留学という選択が可能だったわけです。

名門家庭の経済力と国際的な移動経験が掛け合わさることで、後に世界的なアーティストとしての土台が作られていったのです。

一柳慧との最初の結婚と前衛芸術への目覚め

オノ・ヨーコさんの結婚歴は3度にわたります。最初の結婚は、日本人作曲家との出会いから始まりました。

この結婚が、彼女を前衛芸術の世界へと引き込む重要なきっかけになっています。

一柳慧との出会いと結婚

1956年、オノ・ヨーコさんはジュリアード音楽院でピアノを学んでいた現代音楽家・一柳慧さんと結婚しました。

大学を中退してのスピード婚で、結婚後すぐにマンハッタンに居を構えています。

一柳さんは、当時ダウンタウンのアートシーンの中心人物だった実験音楽の作曲家・音楽理論家ジョン・ケージの授業をニュースクール大学で受講していました。

この人脈を通じてオノ・ヨーコさんは1950年代ニューヨークの前衛芸術の世界に足を踏み入れることになります。

チェンバーズ・ストリートのロフトとパフォーマンス活動

1960年、オノ・ヨーコさんはロウアー・マンハッタンのチェンバーズ・ストリートにあるロフトを住居兼スタジオとして借りました。

前衛作曲家のラ・モンテ・ヤングの協力を得て、自身のものを含むコンサートやパフォーマンスを次々と企画しています。

しかし当時のニューヨークのアートシーンは徹底して男性中心の世界でした。

一連のプログラムはラ・モンテ・ヤングの功績とされてしまうなど、女性アーティストとして正当に評価されにくい現実に直面することも少なくありませんでした。

それでも彼女は1961年に初の個展を開き、鑑賞者が実際に踏みつけることを想定したキャンバス地を床に置くなど、「参加型アート」の先駆的な作品を発表していきます。

一柳さんとの結婚は1963年に解消されましたが、この時期に築いた前衛芸術の人脈と経験が、後のオノ・ヨーコさんの活躍の礎となっていきます。

ジョン・レノンとの運命的な出会いと3度目の結婚

オノ・ヨーコさんといえば、やはりジョン・レノンとの結婚を抜きに語ることはできません。

2度目の結婚を経て、1966年に訪れた「運命の出会い」が、彼女の人生を大きく変えていきます。

アンソニー・コックスとの2度目の結婚

1963年、オノ・ヨーコさんは映像作家のアンソニー・コックスと恋に落ちて再婚しています。

2人の間には娘・キョーコが生まれました。

1964年に発表した「カット・ピース(Cut Piece)」は、舞台に上がった彼女の着ている服を観客がハサミで自由に切るというパフォーマンスで、前衛芸術界で大きな話題を呼びました。

「カット・ピース」はフルクサス運動の代表的な作品として現在も高く評価されており、オノ・ヨーコさんを世界的な前衛芸術家として確立するうえで重要な転機となった作品です。

ジョン・レノンとの出会い

1966年11月8日、ロンドンのインディカ・ギャラリーで、オノ・ヨーコさんはジョン・レノンと運命的な出会いを果たします。

まだ次の個展の設営中だったギャラリーを訪れたレノンは、天井に固定された作品の下にある脚立を登り、虫眼鏡でカンバスに書かれた「YES」という文字を読んだといいます。

もうひとつの作品「釘を打つための絵(Painting to Hammer a Nail)」に対してレノンが「釘を打ってみてもいいですか」と尋ねると、彼女は「想像の5シリングを払って、想像の釘を打ち込めばいい」と返しました。

この粋なやり取りがロックンロール史上最も有名な恋のひとつの始まりとなったのです。

レノンもヨーコもそれぞれ妻子があったため、2人の関係は当初世間から非難を受けました。

しかし2人はお互いへの愛を貫き、1969年にオノ・ヨーコさんがコックスと離婚してジョン・レノンと3度目の結婚をしています。

2人の間には息子・ショーン・レノン(小野太郎)が1975年に生まれています。

ダコタハウスでの生活とジョン・レノン射殺事件

ジョンとヨーコが居を構えたのは、ニューヨーク・マンハッタンの高級住宅建築として知られるダコタハウスです。

セントラルパークに隣接する歴史的な建物で、その名はオノ・ヨーコさんの代名詞のひとつになっています。

ダコタハウスの6つの部屋

1973年に移り住んだジョンとヨーコは、ダコタハウスで実に6つもの部屋を所有していたとされています。

主たる住居としての7階の部屋(寝室4つ・セントラルパークの木々が一望できる眺め)、倉庫代わりの2部屋、ヨーコのスタジオとして使う部屋、来客用2部屋という構成でした。

ダコタハウスはマドンナやビリー・ジョエルなどの著名人でも入居を拒否されるほど厳しい審査があることで有名な建物です。

それでも入居が認められたのは、ジョン・レノンという世界的スターの名声があってこそでした。

1980年12月8日——ジョン・レノンの死

1980年12月8日、悲劇が起きます。

マーク・デイヴィッド・チャップマンによって、ダコタハウスの玄関前でジョン・レノンが銃で撃たれたのです。

その日の夜、ジョンとヨーコが一緒にビルに戻ってきたところを待ち伏せしていたチャップマンは、ヨーコの目の前でジョンの背中と肩を4発撃ちました。

ジョンはその1時間後、病院で死亡が確認されます。享年40歳でした。

最愛の夫を目の前で失うという想像を絶する体験をしながら、オノ・ヨーコさんはその後もダコタハウスに住み続けました。

「なぜあの場所を離れないのか」と問われることも多かったそうですが、彼女にとってダコタはジョンとの思い出が詰まった場所であり続けたのです。

以来50年近くにわたってダコタハウスの住人代表として存在感を示してきたオノ・ヨーコさんですが、近年は新たな転居を決断しています。

ニューヨーク農場への移住と現在の暮らし

長年ニューヨーク・マンハッタンのダコタハウスに住み続けてきたオノ・ヨーコさんですが、近年は大きな生活環境の変化を迎えています。

コロナ禍を機に、亡き夫ジョン・レノンとともに購入していたニューヨーク州北部の農場へとフルタイムで移り住んだのです。

600エーカーのフランクリン農場

1978年、ジョンとヨーコはニューヨーク州フランクリン近郊に約600エーカー(東京ドーム約50個分)の広大な農場を17万8,000ドルで購入していました。

当初はホルスタイン種の乳牛を飼育するつもりだったとも言われており、実際にレノンが100頭以上の雌牛を購入したというニュースもありました。

フランクリンは人口わずか280人の小さな村で、マンハッタンの喧騒とは正反対の静かな田舎暮らしができる場所です。

近年健康上の問題を抱えているオノ・ヨーコさんは「24時間体制」の医療ケアを必要としているとも伝えられており、広大な農場はプライバシーとセキュリティの面でも最適な環境だったのでしょう。

90歳の誕生日と現在の状況

2023年2月18日、オノ・ヨーコさんは90歳の誕生日を迎えました。

誕生日のお祝いは農場で行われ、息子のショーン・レノンとその恋人シャーロット、親しい友人や家族が集まる親密な会となっています。

長年の友人で広報担当のエリオット・ミンツさんがインスタグラムで「部屋は花、笑い、音楽、素晴らしい食事、そして愛のある交流で満たされていた」と公開した様子からは、穏やかな晩年の暮らしぶりが伝わってきます。

また2020年には、ジョン・レノンの8億ドルの財産管理を主軸とするビジネスの利益を息子のショーンさんに譲り渡したことも明らかになっています。

50年以上住んだマンハッタンを離れ、ジョンとの思い出が詰まった農場で静かな日々を送るオノ・ヨーコさんの姿は、まるで「現実離れしていて、何も気にかける必要のない場所(Nothing is real and nothing to get hung about)」というジョンの歌詞そのものかもしれません。

世界的アーティストとして再評価される足跡

オノ・ヨーコさんは長年「ビートルズを解散させた女」という濡れ衣のような評価を受け続けてきました。

しかし近年、アーティストとしての業績が改めて注目されるようになっています。

フルクサス運動と前衛芸術への貢献

1950年代〜60年代にかけてオノ・ヨーコさんが関わっていたフルクサス運動は、完成した作品よりもプロセスを重視する思想に基づく芸術運動です。

後のパフォーマンス・アート、コンセプチュアル・アート、ビデオ・アートの基礎を築いたとされており、現代アートの礎を作った運動のひとつです。

レノンと出会う以前の1960年代初頭にはすでに前衛芸術家として確固たる地位を築いており、彼女の作家としての活動はレノンとの恋愛とは独立したものでした。

2000年にニューヨークのジャパン・ソサエティで開催された展覧会「YES」はその後複数の美術館を巡回し、オノ・ヨーコさんのアーティストとしての再評価の契機となっています。

MoMAとテート・モダンでの大規模展覧会

2015年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)で1960年から1971年までに制作された作品を紹介する展覧会が開催されました。

その後ロンドンのテート・モダンでも1950年代半ばから現在に至るまでの活動を網羅した大規模な回顧展が開かれています。

「ウィッシュツリー(Wish Tree)」のインスタレーションは35カ国で展開され、木の枝に結びつけられた願いは約200万に達するほど世界中に広まっています。

息子のショーンさんは「全世界の人々に、彼女のために願い事をして、木を植える機会を提供したかった」と語っており、母親の芸術的な遺産を未来に繋ぐ意志を示しています。

安田財閥系の名門家庭に生まれ、東京大空襲を体験し、前衛芸術の世界へと踏み込み、世界的なロックスターと結婚し、その最愛の夫を暴力によって失っても――オノ・ヨーコさんは今もなおアーティストとして生き続けています。

実家が育てた「反骨精神」と「自由への渇望」が、この偉大なアーティストの根底に流れているのです。

オノヨーコの実家と生い立ちに関する総まとめ

  • オノ・ヨーコは1933年2月18日、東京都生まれ
  • 実家は安田財閥系の名門一族で、母親が富豪一族の出身
  • 安田財閥創始者・安田岩次郎氏の姪にあたる家系とされる
  • 父親・小野英輔は元クラシックピアニストから銀行家に転身した人物
  • 幼少期は東京・麻布の高級住宅街で育った
  • 旧自宅は九段下にあり、敷地約4,500平方メートルの豪邸
  • 旧自宅は現在フィリピン共和国の大使公邸として使用されている
  • 12歳のとき東京大空襲を窓から目撃し、長野県に疎開
  • 学習院大学哲学科に初の女子学生として入学
  • サラ・ローレンス・カレッジ留学を経て、前衛芸術の世界へ
  • 1956年に一柳慧と最初の結婚、1963年にアンソニー・コックスと再婚、1969年にジョン・レノンと3度目の結婚
  • 1980年にジョン・レノン射殺というtragedy経験後も活動を続けた
  • 1978年に購入したニューヨーク州フランクリンの農場に現在は居住
  • 近年MoMAやテート・モダンでの大規模回顧展で再評価が進む
  • 「ウィッシュツリー」は世界35カ国・約200万の願いが集まるインスタレーション作品

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