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奥居香(現在の芸名:岸谷香)は、1980〜90年代に一世を風靡したバンド「プリンセスプリンセス」のボーカルとして知られています。
本名・奥居香として生まれ、東京・渋谷区広尾から都立大学駅周辺で育ちました。
父の実家は滋賀県彦根市の仏壇店「仏壇の奥居」、母の実家は広島県にあります。
20歳のころに父を亡くし、「もっと仲良くするべきだった」と深く後悔していたことでも知られています。
この記事では、奥居香の実家・家族構成・学歴・幼少期のエピソードを詳しく解説します。
記事のポイント
①:父の実家は滋賀彦根市の仏壇店
②:母の実家は広島・ピアノで音楽に目覚めた
③:弟は東京・中目黒の歯科医院長
④:高校中退からプリプリ結成への軌跡
奥居香の実家の仏壇屋と広島|東京育ちの家族構成
- 父の実家・滋賀彦根の仏壇店「仏壇の奥居」
- 生まれた広島市と東京・渋谷区広尾での幼少期
- 母親のピアノと音楽との出会い
- 父親の死と「父と仲良くするべきだった」という後悔
- 弟・奥居歯科院長のプロフィールと家族の絆
- 祖母・広島との深い縁と帰省エピソード
父の実家・滋賀彦根の仏壇店「仏壇の奥居」
奥居香の父の実家は滋賀県彦根市川瀬馬場町1071にある仏壇店「仏壇の奥居」です。
滋賀県は仏壇・仏具の産地として全国的に知られており、彦根市もその中心地のひとつとして長年の歴史を持っています。
「仏壇の奥居」はそうした文化的背景の中で代々続いてきた店であり、奥居香の「奥居」という姓はこの家業に由来しています。
奥居香自身は東京生まれ・東京育ちであるため、父の実家である滋賀彦根には日常的に住んでいたわけではありませんが、ルーツとしての「奥居家」はこの地にあります。
父は滋賀県出身者として東京で家庭を持ち、奥居香を育てていきました。
「仏壇の奥居」という店名はシンプルながら、代々続く家業の誇りを感じさせる名称です。
奥居香のキャリアの中でも、「奥居」という名前はプリンセスプリンセス時代を通じてファンに親しまれ、現在の岸谷香という芸名に変わった後も、かつてのファンには「奥居香」として記憶され続けています。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 本名 | 奥居香(おくい かおる) |
| 現在の芸名 | 岸谷香(きしたに かおり) |
| 生年月日 | 1967年2月17日 |
| 現在の年齢 | 59歳 |
| 出生地 | 広島県広島市 |
| 育った場所 | 東京都(渋谷区広尾→都立大学駅周辺) |
| 職業 | ミュージシャン・シンガーソングライター |
| 所属バンド | プリンセスプリンセス(解散) |
| 父の実家 | 滋賀県彦根市「仏壇の奥居」 |
| 母の出身 | 広島県 |
「仏壇の奥居」の所在地と家業の歴史
「仏壇の奥居」の住所は滋賀県彦根市川瀬馬場町1071です。
滋賀県は近江仏壇の産地として古くから知られており、彦根市周辺には仏壇・仏具を扱う老舗が多数存在します。
奥居家がこうした地域に根ざして家業を営んできたことは、家族としての強いアイデンティティになっていたと考えられます。
奥居香の父はその家業を背景に持ちながら東京へ出て、音楽の才能ある娘を育てていきました。
父が滋賀県出身であることの意味
奥居香の父が滋賀県出身であることは、彼女のルーツを考える上で重要な要素です。
父は滋賀の地を離れて東京で家庭を築き、広島出身の母と結婚しました。
東西の文化を背景に持つ両親のもとで育ったことが、奥居香の感受性の豊かさに影響を与えたとも言えます。
東京・渋谷区広尾という都会の地で育ちながらも、地方にルーツを持つ家庭環境は、彼女の音楽に深みを与える土台になりました。
「奥居」という姓が持つ意味
「奥居」という珍しい姓は、滋賀県彦根市の仏壇店の屋号にもなっています。
奥居香がプリンセスプリンセスとして活動していた時代、この「奥居」という名は日本全国のファンに知れ渡りました。
現在は結婚により「岸谷香」として活動していますが、かつての芸名「奥居香」は今でも広く認知されています。
姓に込められた家業の歴史は、彼女のアイデンティティの一部でもあります。
父の実家と奥居香の記憶
奥居香が父の実家である滋賀彦根を訪れていたかどうかについての詳細な記録は多くありません。
しかし父を20歳のころに亡くしていることから、父方の実家との交流はその時点でひとつの区切りを迎えることになりました。
父が生前に語っていた滋賀の記憶や仏壇店の話は、奥居香にとって父を偲ぶよりどころとなっていた可能性があります。
「もっと仲良くするべきだった」という後悔の言葉には、父の実家も含めた「父の世界」をもっと知りたかったという思いも込められているかもしれません。
生まれた広島市と東京・渋谷区広尾での幼少期
奥居香は1967年2月17日に広島県広島市で生まれましたが、生まれてすぐに東京へ転居しています。
そのため、広島での記憶はほとんどなく、物心ついたころから東京が生活の場でした。
最初の居住地は東京都渋谷区広尾で、小学2年生から都立大学駅周辺へ転居し、そこで多感な少女時代を過ごしました。
渋谷区広尾は閑静な住宅街と大使館が立ち並ぶ国際色豊かなエリアであり、子どもながらに洗練された空気感の中で育ちました。
幼少期の奥居香は母親のピアノの音を聞いて育ち、5歳からピアノを習い始めています。
音楽的環境に恵まれた家庭の中で、彼女の音楽的才能の種は幼いころからゆっくりと育っていきました。
広島で生まれながらも東京で育った彼女は、母方の祖母が広島に住んでいたことから、小学校のころから一人で飛行機に乗って広島へ帰省するという体験をしています。
| 時期 | 居住地 | 特徴 |
|---|---|---|
| 出生直後 | 広島県広島市 | 母方のゆかりの地・すぐ転居 |
| 幼少期〜小学1年 | 東京都渋谷区広尾 | 国際色豊かな閑静な住宅街 |
| 小学2年〜 | 東京都目黒区(都立大学駅周辺) | 思い出深い生活拠点・碑文谷・自由が丘 |
広島県広島市での誕生と転居
奥居香が広島県広島市で生まれたのは1967年2月17日のことです。
母親が広島県出身であることから、広島での出産となりましたが、その後まもなく家族で東京へと移り住みました。
奥居香自身に広島での生活記憶はほとんどなく、成長の場は完全に東京です。
しかし「広島で生まれた」というルーツは、母方の祖母との縁を通じて彼女の人生に節々で顔を出し続けます。
渋谷区広尾での乳幼児期
東京転居後の最初の居住地は渋谷区広尾でした。
広尾は外国公館が多く立ち並び、インターナショナルな雰囲気を持つ高級住宅街です。
奥居香が意識的な記憶を持つ以前の時期を過ごしたこの地は、彼女の原風景のひとつと言えるかもしれません。
広尾時代の記憶は断片的なものであっても、都会的な環境の中で育ったという事実は彼女の感性に影響を与えています。
都立大学駅周辺への転居と生活
小学2年生から奥居香は東京都目黒区の都立大学駅周辺に転居し、本格的な東京での生活を送ります。
都立大学駅は東急東横線の駅で、自由が丘や碑文谷に近い落ち着いた住宅地です。
近くには碑文谷の大型スーパー(ダイエー)があり、子どものころの思い出の場所として語られています。
自由が丘も生活圏に含まれており、おしゃれな街の雰囲気の中で多感な思春期を過ごしました。
広島ルーツと東京育ちの二重性
広島生まれ・東京育ちという二重のルーツは、奥居香のアイデンティティを形成する重要な要素です。
東京という大都市で育ちながら、母方の祖母がいる広島とのつながりを保ち続けていました。
小学校のころから一人で飛行機に乗って広島へ帰省するという体験は、彼女の精神的な自立心を育てるとともに、広島への特別な感情を育みました。
この二重性は後年の音楽活動においても、彼女の歌詞や表現の幅広さとして現れていると言えるでしょう。
母親のピアノと音楽との出会い
奥居香の音楽の原点は、母親のピアノにあります。
広島県出身の母親はピアノを弾くことができ、特にショパンを好んで演奏していました。
奥居香は幼いころから母のピアノの音を聞いて育ち、5歳からピアノを習い始めています。
母がショパンを弾く姿を見て育ったことが、奥居香の豊かな音楽的感受性の土台となりました。
母親から直接ピアノを教わったという記録もあり、音楽を通じた母と娘の絆は深いものがありました。
しかし小学校高学年になると「ピアノを辞めたい」と言い出した奥居香に対し、母親はピアノに鍵をかけるという行動に出ます。
この出来事は後に奥居香自身が語っており、母の音楽への真剣な向き合い方と娘への期待を象徴するエピソードとなっています。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 幼少期 | 母親(ショパン好き)のピアノを聞いて育つ |
| 5歳 | ピアノを習い始める |
| 小学校高学年 | 「ピアノを辞めたい」→母がピアノに鍵をかける |
| 中学時代 | 叔父から赤いグレコのベースをプレゼントされる |
| 16歳(1983年) | 赤坂小町として本格的にバンド活動開始 |
母親がピアノを教えたこととショパンへの愛情
奥居香の母親は広島県出身で、ピアノが弾けるという音楽的な素養を持っていました。
母のお気に入りはショパンであり、家の中にはクラシック音楽が流れる環境がありました。
そうした環境の中で育った奥居香が自然と音楽に引き寄せられていったことは、容易に想像できます。
母親から受けた音楽教育は、後のプリンセスプリンセスでの作曲・演奏活動の礎となっています。
5歳からのピアノレッスンと才能の開花
奥居香は5歳からピアノを習い始めました。
母親の手ほどきを受けながら、基礎からしっかりとピアノを学んでいきました。
小学生時代はピアノの練習を続け、確かな音楽的技術を身につけていきます。
この幼少期に培ったピアノの技術は、後のバンド活動やソロ活動においても重要な基盤となっています。
ピアノに鍵をかけた母親の思い
小学校高学年になると、奥居香は「ピアノを辞めたい」と母親に打ち明けます。
これに対して母親はピアノに鍵をかけるという強硬な手段に出ました。
この行動は娘に対する愛情と音楽への真剣な向き合い方の表れであると捉えられています。
結果として奥居香はピアノをやめることなく音楽の道を歩み続けることになり、この出来事が彼女の音楽人生のひとつの転換点となりました。
叔父から贈られた赤いグレコのベース
中学時代、奥居香は叔父から赤いグレコのプレシジョン・ベースをプレゼントされます。
このベースとの出会いが彼女をバンド音楽の世界へと引き込んでいきました。
ピアノからベースへという楽器の転換は、クラシック音楽からロック・ポップスへという音楽ジャンルの転換とも重なります。
叔父からの贈り物が一人の少女の人生を大きく変えたとも言えるでしょう。
父親の死と「父と仲良くするべきだった」という後悔
奥居香の人生において、父親の死は大きな転換点となりました。
父は奥居香が20歳ごろの1987年に亡くなりました。
ちょうどその時期は反抗期の終わりごろにあたり、父親との関係が十分に修復されないままのお別れとなりました。
奥居香はその後「もっと父と仲良くするべきだった」と後悔の言葉を口にしており、父への思いは今も変わらないようです。
父が滋賀県出身で仏壇店の家に生まれたという背景を持ちながらも、東京で家庭を持ち、娘の音楽活動を見守り続けた父親の姿がそこにはあります。
1987年はプリンセスプリンセスへの改名と同じ年であり、父はバンドの最大のブレイクを見ることなく旅立っていったことになります。
「M」が100万枚を超えるミリオンセラーとなった1989年の大ヒットを、父親に聴かせることができなかったのは奥居香にとって深い痛みでもあったでしょう。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 出身地 | 滋賀県(実家は彦根市「仏壇の奥居」) |
| 1967年 | 奥居香誕生・東京で家庭を持つ |
| 1983年〜 | 娘・奥居香がバンド活動開始(高校中退) |
| 1987年 | 奥居香20歳ごろ・父死去 |
| 1989年 | 「M」ミリオンヒット(父は見ることができず) |
反抗期の最中に訪れた父との別れ
奥居香が父を失ったのは20歳ごろのことで、ちょうど反抗期の時期と重なっていました。
親子の関係が難しい時期に突然の別れを迎えたことは、彼女に深い後悔をもたらしました。
思春期の子どもが親に反抗することは自然なことですが、その最中に親を亡くすという体験は特別な痛みを伴います。
奥居香はこの後悔を公の場で語っており、多くの人の共感を呼んでいます。
「もっと仲良くするべきだった」という言葉の重み
「もっと父と仲良くするべきだった」という奥居香の言葉には、複雑な感情が込められています。
反抗期という形で距離を置いた父親との関係を悔いる気持ちは、多くの人が抱える普遍的な感情でもあります。
この後悔は後年、自分の子どもたちとの関係を築く上での教訓にもなったのではないかと考えられます。
岸谷五郎と結婚して3人の子どもを持つ母親となった奥居香が、子どもたちとどう向き合ってきたかというエピソードには、この経験が生きているように思われます。
父の死がバンド活動に与えた影響
1987年は奥居香が父を亡くした年であると同時に、バンド名をPRINCESS PRINCESSに改名した年でもあります。
父の死という大きな喪失体験がバンド活動への向き合い方に影響を与えた可能性は十分に考えられます。
音楽を通じて悲しみや後悔を昇華させようとした奥居香の姿は、その後の活動の質の高さにも反映されているといえるでしょう。
父を失った痛みが、彼女の音楽をより深いものへと変えていったとも考えられます。
父親への思いと音楽表現
奥居香(岸谷香)が現在も音楽活動を続ける中で、父への思いが歌詞や楽曲に込められることがあります。
家族への愛情や別れの痛みを歌にする力は、彼女自身の体験から来るものが多いです。
父という存在は亡くなった後も奥居香の創作に生き続けており、彼女の音楽の深みのひとつの源泉となっています。
滋賀彦根の仏壇店に生まれた父が残してくれたものは、「奥居」という名前だけではなく、音楽への道を認めてくれた温かさでもあったはずです。
弟・奥居歯科院長のプロフィールと家族の絆
奥居香には弟がおり、東京都目黒区中目黒で「奥居歯科」を開業している歯科医師です。
奥居香自身が東京で育った都立大学駅周辺と同じ東急東横線沿線の中目黒という場所に、弟が医院を構えていることは興味深い偶然です。
奥居香が音楽の道を歩む一方で、弟は医師としての道を選び、それぞれが異なる分野で活躍しています。
奥居家は父・母・奥居香(長女)・弟の4人家族で、両親を早くに亡くした後は姉弟二人が奥居家のルーツを受け継ぐ立場となっています。
弟が「奥居歯科」という姓を冠した医院を開業していることは、「奥居」という名前への誇りとつながりを感じさせます。
音楽家と歯科医師という異なる道を歩む姉弟でありながら、「奥居」という名前のもとに結ばれた絆は深いものがあります。
詳細なプロフィールは公開されていませんが、弟の存在は奥居香にとって家族という大切な支えのひとつです。
| 続柄 | 詳細 |
|---|---|
| 父 | 滋賀県出身・1987年死去・「仏壇の奥居」ゆかり |
| 母 | 広島県出身・2003年春ごろ死去・ピアノが得意 |
| 奥居香(長女) | ミュージシャン・現在は岸谷香名義で活動 |
| 弟 | 東京都目黒区中目黒「奥居歯科」院長・歯科医師 |
| 夫 | 岸谷五郎(1996年結婚) |
| 子ども | 長男・次男・娘の3人 |
中目黒「奥居歯科」の存在
弟が院長を務める「奥居歯科」は東京都目黒区中目黒にあります。
中目黒は近年おしゃれなカフェや飲食店が集まる人気エリアとして知られていますが、住宅地としての顔も持つ街です。
奥居という姓を医院名に使うことは、家名への誇りと患者への信頼を兼ね備えた選択と言えます。
姉の奥居香(岸谷香)がその名前で音楽の世界に名を残したように、弟も「奥居」の名で医療の世界に貢献しています。
音楽家と歯科医師という異なる道
奥居香が音楽の道を選んだ一方で、弟は医師としての道を歩みました。
同じ家庭で育ちながら異なる才能を開花させた姉弟の軌跡は、奥居家の豊かな可能性を示しています。
音楽と医療という全く異なる分野で活躍する姉弟の存在は、奥居家が多彩な個性を育む環境にあったことを物語っています。
両親がそれぞれの個性を尊重して育てた結果が、この二人の活躍につながっているとも言えるでしょう。
両親亡き後の姉弟の絆
父が1987年に、母が2003年春ごろに亡くなり、現在の奥居家を直接知る世代は奥居香と弟の二人となりました。
両親を早くに失った経験は、姉弟の絆をより強いものにしていると考えられます。
奥居香が自身の家族(夫・岸谷五郎と3人の子供)を持ちながらも、弟との関係を大切にしていることは想像に難くありません。
「奥居」という姓を介した姉弟のつながりは、両親の記憶とともに生き続けています。
「奥居」という名字を守り続ける意味
奥居香は結婚後「岸谷香」という芸名を使っていますが、本名は「奥居香」のままです。
弟も「奥居」の姓を医院名に使い続けることで、家名の誇りを保っています。
滋賀彦根の仏壇店から始まった「奥居」という姓は、東京という大都市でミュージシャンと歯科医師という形で新たな歴史を刻んでいます。
親から受け継いだ名前を誇りに思う姉弟の姿は、温かい家族の絆の証です。
祖母・広島との深い縁と帰省エピソード
奥居香と広島のつながりは、生まれてすぐに東京へ転居したにもかかわらず、母方の祖母が広島に住んでいたことで継続されていました。
驚くべきことに、奥居香は小学3年生のころから一人で飛行機に乗って広島の祖母のもとへ帰省していたと伝えられています。
小学3年生といえば8〜9歳のころです。一人で飛行機に乗って遠方へ帰省するという体験は、彼女の精神的な自立心と行動力を育みました。
広島はただの「生まれた場所」ではなく、祖母という大切な人がいる「もう一つの故郷」として奥居香の記憶に刻まれています。
母親が2003年春ごろに亡くなっていることから、広島の祖母(母方)がその後どうなったかについての公開情報は多くありませんが、祖母との思い出は奥居香にとって大切な宝物です。
広島という地は被爆地としての歴史も持つ特別な場所であり、そこに祖母がいたことは奥居香のルーツ意識に深く関わっています。
| 事項 | 詳細 |
|---|---|
| 生誕地 | 広島県広島市(生まれてすぐ東京へ転居) |
| 母の出身 | 広島県(母の実家が広島にある) |
| 祖母の居住地 | 広島(母方の祖母) |
| 一人帰省の開始 | 小学3年生(8〜9歳)から一人で飛行機で帰省 |
| 母の死去 | 2003年春ごろ |
小学3年生からの一人飛行機帰省
奥居香が小学3年生から一人で飛行機に乗って広島の祖母のもとへ行っていたというエピソードは、彼女の自立心の強さを示しています。
現代でも小学生の一人旅は珍しいですが、1970年代末〜1980年代初頭においてもそれは同様です。
親の信頼と子ども自身の度胸が合わさった体験は、奥居香の精神的な強さの原点のひとつと言えるでしょう。
この経験が後の高校中退・バンド活動開始という大胆な決断にもつながる行動力を養ったとも考えられます。
祖母との時間と広島の記憶
祖母のもとで過ごした広島での時間は、奥居香にとって特別な思い出です。
東京の都会的な生活とは異なる広島でのゆったりとした時間は、彼女の感受性を豊かにしたはずです。
祖母から聞いた話や広島の風景は、奥居香の内側に刻まれた大切な記憶となっています。
母親を通じてつながった広島という土地への思いは、母が亡くなった後もずっと続いています。
母の死と広島への思い
奥居香の母は2003年春ごろに亡くなりました。
母を通じて保たれていた広島とのつながりは、母の死後に新たな意味を帯びることになりました。
広島は「母が生まれた場所」であり「祖母がいた場所」として、奥居香にとって深く感情的な場所です。
母の死という悲しみを経て、広島という場所への思いはさらに深まったと想像されます。
広島という地が持つ意味
広島は1945年の原爆投下で多くの命を失った場所であり、平和への祈りを込めた街として知られています。
奥居香が生まれた広島という地は、単なる出生地以上の歴史的・感情的な重みを持っています。
広島出身の母と、その母が住んでいた広島に何度も足を運んだ奥居香にとって、この地は特別なルーツの場所です。
「広島生まれ」というルーツは、音楽を通じて人々に感動を届けてきた奥居香の感性と無関係ではないでしょう。
奥居香の実家が育んだ音楽の才能と学歴の軌跡
- 東京学芸大学附属小中学校の学歴と音楽への目覚め
- 高校中退・定時制退学と赤坂小町での活動開始
- プリンセスプリンセス改名〜「M」大ヒットへの道
- 育った東京・都立大学駅周辺の街の思い出
- 岸谷五郎との結婚・子育てと親の役割
東京学芸大学附属小中学校の学歴と音楽への目覚め
奥居香は東京学芸大学附属世田谷小学校・中学校に在籍していました。
東京学芸大学附属世田谷小学校は競争率の高い国立小学校であり、学力的にも高い水準の環境です。
小学2年生から都立大学駅周辺に転居し、世田谷の附属小学校に通い始めた奥居香は、勉強よりも音楽に傾倒していきます。
中学では東京学芸大学附属世田谷中学校へ内部進学しましたが、音楽(バンド活動)に夢中になるあまり勉強はおろそかになりがちでした。
内部進学試験では高校への進学に失敗するという経験もしています。
しかし音楽への情熱は学校の成績を超えたものであり、この時期に培った音楽的な感覚は後のプリプリ活動の根幹となっています。
「バンド三昧」という中学時代は、ある意味で奥居香の音楽人生の実質的なスタート地点でもありました。
| 学校名 | 特記事項 |
|---|---|
| 東京学芸大学附属世田谷小学校 | 国立小学校・小学2年から在籍 |
| 東京学芸大学附属世田谷中学校 | 内部進学・音楽(バンド)に夢中・高校内部進学失敗 |
| 玉川聖学院高等部 | 入学後中退 |
| 明治大学付属中野高等学校(定時制) | 編入後再退学 |
国立附属小学校という特殊な環境
東京学芸大学附属世田谷小学校は倍率の高い国立附属小学校であり、教育水準の高い環境です。
こうした進学校的な環境の中に身を置きながら、奥居香の関心は次第に音楽へと向かっていきました。
附属小学校という特殊な環境での体験は、彼女の知的な好奇心や感受性を磨く場にもなっていたはずです。
音楽と学業という二つの世界の間で揺れ動く経験は、後の創作活動に深みをもたらしています。
附属中学での「バンド三昧」の日々
東京学芸大学附属世田谷中学校でも内部進学という恵まれたルートを歩んだ奥居香でしたが、中学時代は「バンド三昧」と言えるほど音楽に没頭していました。
叔父からプレゼントされた赤いグレコのベースを手にした彼女は、バンドを組み演奏することの喜びに目覚めていきます。
進学校という環境にいながらも、音楽という自分だけの世界を見つけた中学時代は、奥居香の自己形成において決定的な意味を持っています。
この時期に出会ったバンドメンバーや音楽との向き合い方が、後のプリンセスプリンセス結成の土台となりました。
高校内部進学失敗という転機
音楽に夢中になるあまり学業がおろそかになった結果、東京学芸大学附属世田谷中学校から高校への内部進学試験に失敗しています。
この失敗は奥居香にとって大きな挫折でもありましたが、同時に「音楽で生きていく」という決意を固めるきっかけにもなりました。
進学校的なレールから外れたことで、かえって自分が本当にやりたいことに集中できる環境が生まれたと言えます。
内部進学失敗という「失敗」が、プリプリのボーカリストという大きな成功への第一歩となったのは歴史の皮肉でもあります。
音楽への目覚めと学歴の関係
奥居香の学歴を見ると、優秀な国立附属小中学校に通いながら高校で中退という異色の軌跡を描いています。
これは学力の問題ではなく、音楽という強烈な情熱が学校という枠組みを超えてしまったことの表れです。
多くのミュージシャンが学校というシステムと折り合いをつけられずに別の道を歩んだように、奥居香もまた自分の内なる声に従って音楽の道を選びました。
国立附属から高校中退という軌跡は、彼女の音楽的才能の強さを逆説的に証明しています。
高校中退・定時制退学と赤坂小町での活動開始
東京学芸大学附属中学校の高校内部進学に失敗した奥居香は、1983年(16歳・高校2年)に「赤坂小町」のメンバーとして本格的な音楽活動を開始しました。
高校は玉川聖学院高等部に進学しましたが、バンド活動との両立が難しくなり中退しています。
その後、明治大学付属中野高等学校の定時制に編入しましたが、これも再退学という結果になりました。
二度の退学という経歴は一見すると挫折の連続に見えますが、奥居香にとってはバンド活動という本当の目標に向かうための選択でした。
赤坂小町はプリンセスプリンセスの前身バンドであり、この時期に培ったバンドとしての技術と絆が後の大成功の土台となります。
16歳でプロへの道を歩み始めた奥居香の決断は、当時の音楽シーンに新しい風を吹き込むことになりました。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1983年 | 赤坂小町として活動開始(16歳)・玉川聖学院高等部中退 |
| 1983〜1985年 | 明治大学付属中野高等学校定時制編入・再退学 |
| 1984年 | キティレコードよりデビュー(赤坂小町名義) |
| 1987年 | バンド名をPRINCESS PRINCESSに改名 |
| 1989年 | シングル「M」ミリオンセラー達成 |
| 1994年 | プリンセスプリンセス解散 |
玉川聖学院高等部への進学と中退
東京学芸大学附属の内部進学に失敗した奥居香は、玉川聖学院高等部に進学しました。
玉川聖学院は東京都世田谷区にある女子校で、キリスト教精神に基づいた教育を行っています。
しかしバンド活動の比重が大きくなるにつれて学校との折り合いがつかなくなり、高校中退という決断をします。
この決断には相当の勇気が必要でしたが、奥居香は自分の道を音楽に定める覚悟を固めていました。
定時制への編入と再退学
高校中退後、奥居香は明治大学付属中野高等学校の定時制に編入しました。
定時制への編入はバンド活動と学業を両立させようとする試みでした。
しかしバンド活動の本格化に伴い、定時制も退学することになりました。
二度の退学という経験は、奥居香が学業よりも音楽を選ぶという強い意志の表れであり、後の大成功がその選択の正しさを証明しています。
赤坂小町としての活動
1983年に赤坂小町のメンバーとして活動を開始した奥居香は、バンドの中核として存在感を発揮していきます。
赤坂小町は後にプリンセスプリンセスとなるメンバーが集まったバンドであり、この時期の活動がプリプリの礎となりました。
1984年にはキティレコードより赤坂小町名義でデビューを果たしています。
16歳でデビューを果たした奥居香の音楽的才能は、この時期から業界内で評価されていました。
バンド活動の本格化と家族の理解
高校を中退してバンド活動に専念するという選択は、家族の理解なしには難しいものです。
奥居香の両親がどのようにこの選択を受け止めたかについての詳細な記録は少ないですが、最終的に音楽の道を歩み続けることができたのは一定の理解があったからと思われます。
父が1987年に亡くなる前に、娘のバンド活動を見守っていた期間があったことは確かです。
家族という土台があったからこそ、奥居香は思い切って音楽の道に飛び込むことができたのでしょう。
プリンセスプリンセス改名〜「M」大ヒットへの道
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1987年に赤坂小町からPRINCESS PRINCESS(プリンセスプリンセス)へと改名した奥居香は、1989年にシングル「M」でミリオンセラーを達成するという大ブレイクを果たします。
「M」は当時の音楽シーンに衝撃を与えたガールズバンドの金字塔となる楽曲であり、奥居香のボーカルと楽曲の力が最大限に発揮された作品です。
プリプリは「女性だけのバンド」という枠を超えた実力で、時代を象徴するバンドとなりました。
改名から大ヒットまでのわずか2年間という短い期間に、バンドとして驚異的な成長を遂げた背景には、赤坂小町時代からの地道な活動があります。
1994年の解散まで、プリンセスプリンセスは日本の音楽シーンに多大な影響を与え続けました。
解散後も奥居香はソロ活動を続け、現在は岸谷香名義でミュージシャンとして活動しています。
| 年 | 出来事・楽曲 |
|---|---|
| 1987年 | 赤坂小町からPRINCESS PRINCESSに改名 |
| 1988年 | アルバム「LOVERS」発売 |
| 1989年 | シングル「M」発売・ミリオンセラー達成 |
| 1991年 | 「世界でいちばん熱い夏」ヒット |
| 1992年 | 「GET CRAZY!」ヒット |
| 1994年 | 解散・武道館ファイナルコンサート |
PRINCESS PRINCESSへの改名の意味
1987年にバンド名をPRINCESS PRINCESSに改名したことは、バンドとしての新たな出発を意味していました。
「プリンセス」という言葉は女性らしさとロックの強さを兼ね備えたイメージを体現しており、当時のガールズバンドブームの中でも際立った存在感を示しました。
奥居香のカリスマ的なボーカルとリーダーシップがバンドの方向性を定め、改名後急速に注目を集めていきます。
この改名は単なる名前の変更ではなく、バンドとしての決意と方向性の明確化を示すものでした。
「M」が生まれた背景
1989年に発売されたシングル「M」はプリンセスプリンセスの代名詞となる楽曲です。
奥居香が作詞・作曲した「M」は、力強いギターリフと印象的なメロディが融合した楽曲で、一度聴いたら忘れられない魅力を持っています。
「M」のミリオンセラー達成は日本の音楽シーンにおける歴史的な出来事であり、女性バンドの可能性を大きく広げた作品です。
幼少期に母からピアノを習い、叔父からベースをもらい、何度も挫折しながら積み上げてきた音楽への情熱が、「M」という楽曲に結実しました。
プリプリ解散と奥居香の決断
1994年のプリンセスプリンセス解散は多くのファンに衝撃を与えました。
解散の理由は様々な要因があると言われていますが、バンドとしての完成形を追い求めた結果の決断でもありました。
武道館でのファイナルコンサートは伝説的なステージとして今も語り継がれています。
解散後、奥居香はソロ活動を始め、その後岸谷五郎との結婚を経て「岸谷香」という新たな名前で音楽の道を歩み続けています。
現在の岸谷香としての活動
プリンセスプリンセス解散後、奥居香は1996年に俳優・岸谷五郎と結婚し、「岸谷香」として芸名を改めました。
現在も精力的に音楽活動を続けており、シンガーソングライターとしての才能は衰えていません。
長年のファンには「奥居香」として、新世代のファンには「岸谷香」として知られる彼女の音楽は、世代を超えて多くの人に愛されています。
実家で育まれた音楽への情熱は、今も岸谷香の音楽を通じて生き続けています。
育った東京・都立大学駅周辺の街の思い出
奥居香が小学2年生から育った東京・都立大学駅周辺は、彼女にとって最も思い出深い「故郷」と言える場所です。
都立大学駅は東急東横線の駅で、現在は学芸大学駅と自由が丘駅の間に位置しています。
この周辺には碑文谷の大型スーパー(ダイエー碑文谷店)があり、子どものころの思い出の場所として奥居香が語ることがあります。
自由が丘も生活圏であり、おしゃれなお店が並ぶこの街の雰囲気が奥居香の感性を磨いていきました。
都立大学駅周辺は商店街と住宅地が混在する生活感のある街であり、東急沿線の洗練された雰囲気の中で奥居香は音楽に目覚めていきました。
バンド活動を始めてからも、この地が生活の拠点であり続けたことは、彼女のアイデンティティ形成に大きな影響を与えています。
現在、弟が中目黒で歯科医院を開業していることも、この東急東横線沿線エリアとの家族としてのつながりを感じさせます。
| 場所 | 関連するエピソード |
|---|---|
| 渋谷区広尾 | 幼少期の最初の居住地 |
| 都立大学駅周辺(目黒区) | 小学2年から育った主な生活拠点 |
| 碑文谷(大型スーパー) | 子どものころの思い出の場所 |
| 自由が丘 | 生活圏・活動拠点 |
| 中目黒 | 弟・奥居歯科の所在地 |
| 赤坂 | 赤坂小町として活動開始の地 |
都立大学駅という生活の舞台
都立大学駅は東急東横線の中でも落ち着いた雰囲気を持つ駅です。
1960〜70年代の東京の住宅地として発展したこのエリアは、商店街と住宅地が調和した生活感のある街です。
奥居香が小学2年生から住み始めたこの街は、音楽への目覚めから高校中退・バンド活動開始までの多感な時期の舞台となりました。
都立大学という地名は現在では廃止されたため、今では「学芸大学駅」となっていますが、奥居香が育ったころは「都立大学駅」という名前でした。
碑文谷・自由が丘の思い出
碑文谷は都立大学駅から徒歩圏内の住宅地で、大型スーパーが子どものころの思い出の場所として奥居香に記憶されています。
ダイエー碑文谷店は当時の東京郊外の大型スーパーとして地域住民に親しまれていました。
子どもにとって大型スーパーはワクワクする場所であり、家族と過ごした日常の記憶が刻まれています。
自由が丘は若者やファッション好きに人気のおしゃれな街であり、音楽を志す若き奥居香にとって感性を刺激する場所でもありました。
東急東横線沿線と奥居家のつながり
渋谷区広尾から始まり、都立大学駅(目黒区)、そして弟の中目黒と、奥居家は東急東横線沿線に深いゆかりを持っています。
この沿線は東京の中でも文化的に豊かなエリアとして知られており、音楽や芸術への感受性を育む環境に恵まれています。
奥居香が音楽家として成長した背景には、こうした東京の特定のエリアで育ったという地理的要因も無視できません。
東急東横線という「生活の軸」が、奥居家の歴史をつないでいるとも言えるでしょう。
音楽活動と地元の関係
赤坂小町として活動を始めた奥居香にとって、生活拠点であった都立大学駅周辺は音楽活動の前線基地でもありました。
練習場所やライブハウスへの移動の起点となったこの地での日々が、バンドとしての技術と絆を深める時間となりました。
地元の街で培われた「地に足のついた感覚」は、プリンセスプリンセスの音楽が多くの人の共感を呼んだ理由のひとつかもしれません。
故郷と呼べる都立大学駅周辺への思いは、奥居香の音楽の底流に流れ続けています。
岸谷五郎との結婚・子育てと親の役割
プリンセスプリンセス解散後の1996年、奥居香は俳優・岸谷五郎と結婚し、「岸谷香」という新たな名前で第二の人生を歩み始めました。
二人の間には長男・次男・娘の3人の子どもが生まれ、奥居香は音楽活動と子育てを両立させてきました。
自身が反抗期の最中に父を亡くし「もっと仲良くするべきだった」と後悔した経験は、子育てにおいて親としての向き合い方に大きな影響を与えていると考えられます。
長男が名門高校入学後に中退し、ミュージシャンを志望するという出来事があり、奥居香はかつての自分を重ねながらその選択を受け止めました。
親の立場から子どもの夢を応援することの大切さを、自身の経験から深く理解している奥居香の姿は多くの共感を呼んでいます。
岸谷五郎も俳優として第一線で活躍する芸能人であり、二人の芸能人カップルとして注目を集めながらも、家族としての絆を大切にしてきました。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| 結婚 | 1996年・岸谷五郎と結婚 |
| 子どもの数 | 3人(長男・次男・娘) |
| 長男のエピソード | 名門高校中退・ミュージシャン志望 |
| 岸谷五郎の職業 | 俳優 |
| 現在の活動名 | 岸谷香(シンガーソングライター) |
岸谷五郎との出会いと結婚
岸谷五郎は舞台俳優・映画俳優として知られる実力派の芸能人です。
奥居香と岸谷五郎の結婚は1996年のことで、プリンセスプリンセス解散から2年後のことでした。
芸能界という同じ世界に生きる二人が出会い、家族を作り上げていったことは、両者の芸術的な感性の共鳴があったからこそでしょう。
結婚後、奥居香は「岸谷香」という芸名を用いて音楽活動を継続しており、新たな名前のもとで新たな音楽の歴史を刻んでいます。
3人の子どもの子育て
岸谷香は長男・次男・娘の3人の子どもの母親として、音楽活動と子育てを両立してきました。
ミュージシャンという不規則な生活を持ちながらも、母親としての役割をしっかりと果たしてきた姿は多くのファンから尊敬されています。
自身が父を早くに亡くした経験から、子どもたちとの時間を大切にする姿勢は一貫しています。
3人の子どもそれぞれの個性を尊重しながら育てる岸谷香の子育て観は、自らの幼少期の経験から学んだものが多く含まれています。
長男のミュージシャン志望と母の役割
長男が名門高校入学後に中退し、ミュージシャンを志望するという出来事は、岸谷香にとって複雑な感情をもたらしたはずです。
かつて自分も高校を中退して音楽の道を選んだ経験を持つ彼女は、長男の選択に自分自身を重ね合わせることができました。
「音楽で生きていく」という道の険しさを知っているからこそ、簡単に賛成することも、安易に反対することもできない複雑な立場に置かれました。
しかし最終的には長男の選択を尊重する姿勢を見せており、親としての器の大きさを示しています。
自分の経験を生かした親としての成長
反抗期に父を亡くした後悔、二度の高校中退という経験、プリプリ解散という別れなど、多くの経験を経た岸谷香は親として深みのある存在感を持っています。
自分自身が親から十分な愛情を受けながらも反発した経験があるからこそ、子どもたちの反抗や葛藤を受け止める包容力があります。
「もっと父と仲良くするべきだった」という後悔は、子どもたちとの関係においては同じ後悔を繰り返さないという誓いにもなっているでしょう。
実家で育まれた家族への思いは、岸谷香として新たな家族を築く中でさらに深まり続けています。
奥居香の実家と家族の総まとめ
- 奥居香の本名は奥居香(おくいかおる)、現在の芸名は岸谷香(きしたにかおり)
- 1967年2月17日生まれ・現在59歳
- 出生地は広島県広島市だが生まれてすぐ東京へ転居
- 幼少期は渋谷区広尾、小学2年から都立大学駅周辺(目黒区)で育つ
- 父の実家は滋賀県彦根市川瀬馬場町1071の仏壇店「仏壇の奥居」
- 母は広島県出身・ピアノが得意でショパンを好んだ
- 5歳からピアノを習い、母に音楽の基礎を学ぶ
- 叔父から赤いグレコのベースをプレゼントされバンド音楽に目覚める
- 父は奥居香が20歳ごろの1987年に死去・「もっと仲良くするべきだった」と後悔
- 母は2003年春ごろに死去
- 弟は東京都目黒区中目黒「奥居歯科」の院長・歯科医師
- 東京学芸大学附属世田谷小中学校→玉川聖学院高等部中退→定時制も退学
- 1983年(16歳)赤坂小町として活動開始・1987年プリンセスプリンセスに改名
- 1989年「M」でミリオンセラー達成・1994年解散・1996年岸谷五郎と結婚
- 現在3人の子どもを持ちながら岸谷香名義で音楽活動継続中

