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美川憲一さんの実家について、どんな場所でどんな生い立ちだったのか気になっている方は多いと思います。
美川憲一さんは長野県諏訪市生まれで、2歳から東京・西新橋のトタン屋根の家で育ちました。
その実家には「2人の母」という複雑な事情があり、養母・米子さんと実母・以し子さんという姉妹がともに美川さんを育てたという、ドラマのような生い立ちがあります。
そして芸能界で成功を収めた美川さんは、その母親たちへの恩返しとして総工費7億円と言われる世田谷の豪邸を建設。現在はロサンゼルスやバンコクにも不動産を持つほどの資産家となりました。
この記事では、美川憲一さんの実家の場所や生い立ち、2人の母親との関係、そして現在の自宅まで詳しく解説します。
記事のポイント
①:実家は東京・西新橋のトタン屋根で雨漏りあり
②:2人の母養母・米子と実母・以し子が育てた
③:7億円豪邸を世田谷に建て2人の母と同居した
④:ロサンゼルスなど海外にも不動産を所有している
美川憲一の実家と生い立ち|2人の母が育てた西新橋の家
- 美川憲一の実家は東京・西新橋にあった
- 実母・以し子さんの壮絶な出産エピソード
- 養母・米子さんが借金を返しながら育てた
- 出生の秘密を知った中学1年生の夏
- 芸能界入りのきっかけは義母への恩返し
美川憲一の実家の場所と家の様子
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美川憲一さんの実家について、まずどこにあったのか確認してみましょう。
美川さんは1946年2月15日、長野県諏訪市で生まれましたが、2歳の頃に東京・西新橋に移り住みました。
具体的には、現在の西新橋1丁目付近——かつての都電・南佐久間町駅の近く——がその場所です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出生地 | 長野県諏訪市 |
| 実家の場所 | 東京都港区西新橋(旧・南佐久間町) |
| 実家の構造 | トタン屋根の2階建て持ち家 |
| 特徴 | お風呂なし・雨漏りあり・急な階段 |
| 周辺環境 | 都電が走る都会の真ん中、路地に長屋が連なる |
実家の家の状態
実家の家については、美川さん自身がインタビューや番組で詳しく語っています。
「家が都電の南佐久間町駅(現西新橋1丁目)の近くにあり、持ち家だったんですけど、トタン屋根のね。お風呂もなく、雨漏りして、洗面器を置いたりバケツを置いたりして音がポターン、ポターンと落ちるから、タオルを敷いてやりましたよ。昭和です。早く親孝行して、ちゃんと家を建ててやらなきゃいけないなって子供の頃からそう思ってましたね」と振り返っています。
トタン屋根の2階建てで、階段が非常に急だったと記憶しているそうです。
今の時代では想像しにくいかもしれませんが、当時の下町の住宅事情を物語るエピソードで、お風呂がない家で雨漏りの音を聞きながら過ごした幼少期が、後の親孝行への強いモチベーションになりました。
西新橋という場所の雰囲気
美川さんが育った西新橋エリアは、現在でこそビジネス街として知られていますが、当時は都電が走る下町情緒あふれる場所でした。
「昔はあの辺りに都電が走っていて、隣の駅が虎ノ門という都会の真ん中。でも、ちょっと路地を入ると長屋のように連なった家がたくさんあったんです」と美川さんは語っています。
都会の真ん中でありながら、路地には人々の生活感あふれる長屋が連なっていた。そんな昭和の東京の風景の中で、美川さんの幼少期は育まれました。
実家での生活習慣と養父のしつけ
養父は非常に厳格な人物でした。
「食事中は正座をし、一切しゃべってはいけない」というのが家のしきたりで、お金がなくても、静かに品のある食べ方をすることが我が家のルールだったといいます。
この養父のしつけが、後の美川さんの品格ある立ち居振る舞いのベースになったと考えられます。
養父はある時、知人の保証人を引き受けて借金を抱えてしまい、気に病んだ結果として脳出血で倒れ、美川さんが小学校低学年のときに亡くなりました。
実家の家財道具への差し押さえ
養父が亡くなってからの実家は、経済的に非常に苦しい状況でした。
「家財道具や家の中のあちこちに差し押さえの紙が貼られていたことは鮮明に覚えています」と美川さんは語っています。
玄関脇のスペースは電気屋さんに貸し、「箱入り奥様」と言われていた養母の米子さんが、昼は保険の外交員、夜は築地の料亭で仲居をしながら借金を返していきました。
この養母の姿を見て育った美川さんは、「一刻も早くお金を稼いで、二人の母にラクをさせたい」という強い思いを育んでいきます。
実母・以し子さんの壮絶な出産エピソード
美川さんの生い立ちで特に注目されるのが、実母・以し子さんの壮絶なエピソードです。
実母・以し子さんは、長野から東京に向かう列車の中で出会った男性に「結婚を前提にお付き合いしてほしい」とナンパされ、交際を始めました。
東京のアパートで一緒に住み始め、美川さんを授かることになりましたが、ここから波乱の連続が始まります。
流産させようとした赤い薬の事件
以し子さんが妊娠を打ち明けると、相手の男性の顔色が変わりました。
数日後、男性は「ビタミン剤だから飲みなさい」と赤い包み紙に入った粉薬を手渡してきます。
しかし以し子さんはイヤな予感がして飲まずに捨てました。後にその薬は流産を促す劇薬だったことが判明します。
「飲んだわよ」と言ったものの、お腹は大きくなるばかり。そしてその男性はある日突然、姿を消してしまいました。
妻帯者だったという衝撃の事実
以し子さんが生まれたばかりの美川さんをおぶって、男性の実家(千葉)に押しかけると、そこには小さな女の子と、その母親が出てきました。
男性には別に妻子がいたのです。要は完全に騙されていたわけです。
「ワンワン泣く美川さんを背負い、以し子さんも大泣きしながら帰った」というエピソードは、その場面の壮絶さを物語っています。
美川さんが東京に来た後の話では、以し子さんが男性の千葉の実家に乗り込んだ際、奥さんが「夫がこんな罪作りなことをしてごめんなさい。あなたはまだ若くてこれからの人生があるから、夫と別れてほしい」と土下座して謝罪し、慰謝料も支払ってくれたともいいます。
肺結核で美川さんを姉夫婦に託す
以し子さんはショックから体調を崩し、肺結核を患ってしまいます。
療養が必要になった以し子さんは、泣く泣く2歳の美川さんを姉・米子さん夫婦に預けることになりました。
米子さん夫婦が住んでいたのが、先述した西新橋のトタン屋根の家です。幼い美川さんはそこで育てられることになります。
以し子さんはその後も「叔母さん」として美川さんの近くに住み続け、運動会などの行事には必ず顔を見せました。美川さんは実母の姿に何か特別の愛情を感じ取っていたといいます。
美川さんが出生の秘密を知った日
中学1年生のとき、近所の人から耳打ちされました。
「坊や、あなたの本当のお母さんは、おばちゃんのほうなのよ」——。
驚きはしたものの、「ああそうか」と腑に落ちた感覚があったといいます。美川さんは養母に確かめることはしませんでした。「養母がかわいそうだと思ったの。私、わりと大人びた子で、けっこう気を使ったのよ」と後に振り返っています。
それからは2人の母として接するようになり、2人の母に反抗することなく過ごしたといいます。
養母・米子さんが美川を育てた背景
美川さんの実質的な母親として育てたのが、養母・米子さんです。
「米子さんはしっかり者で堅実な人。以し子さんはサバサバした性格で、きっぷがいい。性格は違うけれど二人とも美人でおしゃれで、きれいなものが大好きで、歌舞伎も宝塚も新派も見せてくれた」と美川さんは語っています。
米子さんの働く姿が美川さんの原点
養父が亡くなった後、米子さんは借金を抱えながら昼夜問わず働き続けました。
「昼は保険の外交員、夜は築地の料亭で仲居をしながら借金を返していきました」——美川さんはこの養母の懸命な姿を見て、「早くお金を稼いで養母を楽にさせたい」という強い使命感を育てていきます。
「新橋のあの家で雨漏りとお風呂のないところで、子供の頃から自立心が育った。何とか家建ててって。そう思ったけど、なかなか家建つまで時間がかかったんですよ」と美川さんは振り返っています。
2人の母からもらったおしゃれへの感性
米子さんは美川さんに半ズボンとハイソックスをはかせて、「さあ、おしゃれして銀ブラするわよ」と銀座に連れて行ってくれました。
「借金もあって経済的にそんなに楽じゃなかったはずですが、『これは外国から来たものよ。色合いがきれいでしょう?』と良いもの、きれいなものを私に見せるのが母の趣味で、私の感性は、そういうところで磨かれたと思っています」と語っています。
着物をきっちり着こなす養母・米子さんと、洋装でモダンガールの実母・以し子さん。2人ともすごくおしゃれだったと美川さんは振り返り、後の派手な衣装へのこだわりはここで培われたといいます。
2人の母のたくましさ
「実母のほうも、風呂敷包み一つ持って、どこへでも働きに行くというような働き者で、母親は2人ともたくましかったですね。借金もきっちり返済しました」と美川さんは語っています。
どんな困難にも屈せず、たくましく生きた2人の母——その生き様が、美川さんの「しぶとく生きる」精神の原点になっています。
「私の中には二人の母が半分半分で入っているの。実母からは、自由な発想や恐れを知らないパワーをもらった。養母からは周囲への気遣いや、我慢を教わった。二人の母なくして今の私はないのよ」と語っています。
美川憲一が芸能界を目指したきっかけ
美川さんが芸能界を目指したきっかけは、他でもなく養母・米子さんへの恩返しでした。
「一刻も早くお金を稼いで、二人の母にラクをさせたい……それが芸能界への扉を開くきっかけになった」というのが美川さん自身の言葉です。
19歳でのデビューまでの経緯
美川さんは1964年(昭和39年)に大映ニューフェイスのオーディションに合格し、俳優として芸能界に入りました。
「お金のために入ったんですもん。お金、お金って」と自ら語っているほど、動機は明確でした。
1965年(昭和40年)に歌手として正式デビュー。当初はスーツを着て直立不動で歌う、ごく普通のスタイルでした。
そして1966年(昭和41年)、「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚の大ヒットを記録。美川憲一さんの名前が一気に世間に知れ渡りました。
キャリアの歩みと代表曲
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1946年 | 長野県諏訪市で出生 |
| 1948年頃 | 2歳で東京・西新橋に移住(養母米子さん宅) |
| 1964年 | 大映ニューフェイスオーディション合格 |
| 1965年 | 歌手デビュー |
| 1966年 | 「柳ヶ瀬ブルース」120万枚大ヒット・紅白初出場 |
| 1968年 | 紅白歌合戦初出場(「伊勢崎町ブルース」) |
| 1970年代 | 「さそり座の女」などヒット曲を連発 |
| 1980年代 | スランプ期を経験 |
| 1990年代 | コロッケのモノマネ・「タンスにゴン」CMで再ブレイク |
| 1993年 | 世田谷・深沢に7億円豪邸建設 |
| 1999年 | コンサート「ドラマチックシャンソン」開始 |
デビュー前の苦労と淡谷のり子との出会い
芸能界入り後は、淡谷のり子さんが身内のようにかわいがってくれたといいます。
ある裁判では減刑の嘆願書まで書いてくれた淡谷さんについて、美川さんは「1999年に92歳で亡くなった淡谷のり子さん。美川の恩人でもある」と語っています。
モノマネ番組に出るきっかけも、審査員として淡谷さんがいたからこそ——「身内のようにかわいがってくれた淡谷さんの顔を見られるだけでもうれしい、って考えて出演を決めました」というエピソードは、人間関係を大切にする美川さんらしい話です。
実父との対面エピソード
美川さんの実父については、長い間謎に包まれていました。
実父は以し子さんを妊娠させながらも、すでに妻子がいた男性でした。以し子さんが妻帯者と知らずに付き合い、裏切られた形です。
美川さんが実父の存在を知ったのは、出生の秘密と同じく中学生の頃。近所の人から耳打ちされた内容には、実父が千葉に別の家庭を持っていたという衝撃の事実も含まれていました。
30代での番組での対面
美川さんが30代のときに、テレビ番組で実父と対面する機会がありました。
「(実父は)畳に頭をつけるくらい謝って。”本当に申し訳ない”って。土下座して丁重に謝ってくれて」——美川さんは「今でもしっかりと目に焼きついてる」と語っています。
「どういう人か自分の目で確認したかった」と実父と2人で食事に行ったことも明かしています。
実父との対面は、テレビの演出として仕組まれたものでしたが、美川さんはその機会を「確認のチャンス」として受け止め、感情的に怒鳴り散らすことなく冷静に接したといいます。
幼い頃から2人の母の苦労を見てきた美川さんにとって、実父への怒りよりも「どんな人物なのか」という純粋な興味のほうが勝っていたのかもしれません。
実母・以し子さんの反応
一方、実母の以し子さんは「よく出てこれるもんだわ」と実父への怒りを隠しませんでした。
以し子さんが受けた苦労を考えれば当然の感情で、その場面には以し子さんの人生に対する無念さが滲みます。
美川さん自身は怒りよりも「確認したい」という気持ちが強かったといい、実父の謝罪を受け入れたことで、自分なりの区切りをつけたように見受けられます。
実父の存在が美川さんに与えた影響
実父の不在というのは、幼少期の美川さんにとってどんな意味を持っていたのでしょうか。
興味深いのは、美川さんが実父について「恨む」というより「知りたい」というスタンスを取り続けていた点です。
2人の母から「きれいなもの」「品のある振る舞い」「自分を大切にすること」を教わった美川さんにとって、実父の不在は確かに寂しいことだったでしょう。
しかし同時に、借金と苦労の中でも懸命に生きた2人の母の姿が、美川さんの強さの源泉となっています。
「私の中には二人の母が半分半分で入っているの」という言葉には、実父の影よりも2人の母の影響のほうがはるかに大きかったことが伝わります。
実父との対面で土下座謝罪を受け、美川さんはその後も実父に対して複雑な感情を持ちながらも、前向きに芸能活動を続けてきました。
美川憲一の実家から7億円豪邸へ|現在の自宅と資産
- デビュー後の最初の住まい・赤坂のマンション
- 世田谷・深沢に建てた7億円の豪邸
- ロサンゼルスとバンコクの海外不動産
- 現在の自宅・青山のマンション
デビュー後に購入した赤坂のマンション
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「柳ヶ瀬ブルース」がヒットした頃は、まだ西新橋の実家に住んでいたという美川さん。
「新潟ブルース」を出した1967年(昭和42年)頃に立ち退きの話が持ち上がり、新居を探すことになりました。
赤坂一等地のマンションを購入
「家はいずれ建てるつもりだから、それまでマンションに住むのもいいかな」と考えていたところ、赤坂の一等地に東京タワーが見える豪華なマンションができ、昭和46年(1971年)に4,800万円で購入しました。
家財道具から何から全部特注で、「銀座のギャルリーためながで買ったフランスの画家カシニョールの絵や、大きな籐のランプシェードなど」当時の最先端インテリアを揃えた素敵な住まいに仕上げました。
「若かったし、仕事も一番乗っていた時期だから、インテリアには相当こだわりましたね」と美川さんは振り返っています。
養母・米子さんのためのマンション購入
同じ時期に、麻布十番にも良いマンションを見つけ、まず養母・米子さんが住む場所として購入しました。
「親孝行しようと思って。実の母にもけっこう高級なアパートを借りてあげましたよ(笑)。全て港区界隈の、どこへ行くにも便利な場所」というエピソードが、美川さんの親孝行ぶりをよく表しています。
母は2人とも料理が上手で、3人そろって手料理を食べることもあったといいます。「近くに住み、みんなで食卓を囲んで、本当に親孝行できたなあと思っています」という言葉には、実家での貧しかった食卓と対比した喜びが滲みます。
赤坂マンション売却のタイミング
赤坂のマンションは4,800万円で購入しましたが、バブル経済の上昇に乗って8,000万円くらいまで価格が上がりました。
そのタイミングで売却。利益が出たので、ホテルニューオータニのスイートルームで1ヶ月暮らしたという豪快なエピソードも(笑)。
その後は目黒のおしゃれなメゾネットを借り、犬と一緒に住んでいたといいます。
仕事では1980年代にスランプがありましたが、越路吹雪さんからこんな言葉をもらっていました。「家を構えると、そこでのんびりしちゃうから、家は最後でいいのよ。守りに入るより、自分に投資しなさい」——この言葉が美川さんの背中を押しました。
スランプ期もオートクチュールの衣装を着続け、「美川憲一」というキャラクターを確立しようとしていたのです。
そしてその努力が実ります。コロッケさんによるモノマネ、そして「タンスにゴン」のCMで「もっとはじっこ歩きなさいよ」というセリフが大流行。美川さんはオネエ言葉のキャラクターで完全に再ブレイクしました。
再ブレイクのきっかけとなったコロッケさんとの出会いについて、美川さんはこう語っています。「最初は私からコロッケにお願いしたの。『あんた、ブルース・リーの「アチチ、アチチ」ばっかりやっていないで、私のモノマネをやりなさいよ』って」という逸話は有名です。
「コロッケが『さそり座の女』を歌っている後ろから登場したら大ウケしたんだけど、私は『いい迷惑よ。こんな安物の衣装なんて着てないわよ』って言ったのよ」——この一言で一気に話題をさらいました。
「チャンスには食らいついていくタイプ」という美川さんらしい生き方が、スランプからの復活劇として語り継がれています。
世田谷・深沢の7億円豪邸
美川さんが長年の夢だった家を実現させたのは、1993年(平成5年)のことでした。
世田谷区の深沢に、総工費7億円と言われる豪邸を建設したのです。
豪邸建設のこだわり
「建てるなら中途半端は嫌だと思っていたので、ドアを始め、内装のほとんどが外国製の特注品でした」と美川さんは語っています。
そのセンスや美意識は、2人の母の影響が大きいと振り返ります。
「着物をきっちり着こなす養母と、洋装でモダンガールの実母。2人ともすごくおしゃれでした」——幼少期に銀座で良いものを見せてくれた母親たちの影響が、7億円という桁外れのこだわりの家に結実しました。
2人の母が同居した豪邸での生活
美川さんが建てた世田谷の豪邸には、養母・米子さんと実母・以し子さんの2人が同居しました。
「2人に『東京にきてどうだった?』って聞いたら『あんたのおかげで何不自由なく暮らせて、こんな豪邸に住めて思い残すことはない、ありがとう』って。その言葉を聞けて私の使命は終わったわ」と美川さんは語っています。
雨漏りするトタン屋根の家で過ごした幼少期から、2人の母を7億円の豪邸に住まわせるまでの道のり。その達成感は、計り知れないものがあったでしょう。
豪邸からの退去と売却
養母・米子さんが1996年に、実母・以し子さんが2006年に亡くなりました。
残す人がいなくなった美川さんは、2021年頃(「一昨年12月」)に世田谷の豪邸を売却しました。
「住まない家に維持費を払い続けるよりも、今を楽しむことにお金を使ったほうがいいなと思って」というのがその理由で、執着せず前を向く美川さんらしい決断でした。
2人の母のために建てた家であり、2人の母が「思い残すことはない」と言ってくれた家を手放すのは、複雑な気持ちがあったでしょう。
しかし、美川さんの生き方の根底にある「今を楽しむ」「執着しない」というスタンスは、まさに2人の母から受け継いだたくましさの表れともいえます。
西新橋のトタン屋根の家から、7億円の豪邸へ。そして豪邸を手放し、また新しい住まいへ——美川さんの住まいの歴史は、そのまま彼女の人生の歴史です。
「家との出合いは、めぐり合わせやご縁だと思うんです」という言葉が示すように、住まいに対するドライな割り切りと、その一方で感性を大切にする姿勢が美川さんらしいといえます。
ロサンゼルスとバンコクの海外不動産
美川さんの不動産ライフは国内にとどまりません。
「海外旅行も大好きで、しょっちゅう行っているうちに、ロサンゼルスとバンコクにも家を持つことになりまして(笑)」と語っています。
ロサンゼルスの物件購入のきっかけ
ロサンゼルスの家は、1994年の大地震直後に1ドル82円というタイミングで購入しました。
「内覧に来た時、広大なロサンゼルスの街に落ちていく夕日を見て、あまりの美しさに涙がこぼれ、即決で購入したくらい」というエピソードは美川さんらしい直感的な決断です。
バルコニーからの眺めは最高で、眼下にビバリーヒルズとハリウッドが一望でき、夜景と夕日が素晴らしいといいます。
「唯一、私が安らげる場所です」と語るほど、美川さんにとって特別な場所になっています。
ビバリーヒルズを望む物件の現在価値
購入から30年以上が経過し、1ドル82円の頃に買ったロサンゼルスの物件は、現在すごく価格が上がっているといいます。
「とても古い建物なんですが、バルコニーからの眺めが最高なんです。眼下にビバリーヒルズとハリウッドが一望できて、夜景と夕日が本当に素晴らしいの」と語る美川さん。
資産価値という点でも、美川さんの不動産センスの良さが証明されています。
1994年の購入当時は、ロサンゼルスが大地震(ノースリッジ地震)の直後で不動産相場が落ち込んでいたタイミングでした。
さらに1ドル82円という歴史的な円高水準のタイミングで、円換算では非常に安く購入できたわけです。現在の円安・ロサンゼルス不動産高騰を考えると、その資産価値は購入時の何倍にもなっている可能性が高いといえます。
「直感」で購入を決断した美川さんですが、結果的には絶好のタイミングでの投資となりました。
バンコクの不動産とセカンドハウス的活用
ロサンゼルスの他に、バンコクにも不動産を持つ美川さん。
バンコクはタイの首都で、東南アジア最大の国際都市のひとつです。日本からのアクセスも比較的よく、観光・娯楽・グルメなどで人気の都市です。
「しょっちゅう行っているうちに家を持つことになりまして」というエピソードからわかるように、美川さんは旅行先での生活を楽しみながら自然に海外不動産を増やしていったようです。
ロサンゼルスの自宅については「唯一、私が安らげる場所」と語るほど思い入れが深い一方、バンコクはより自由気ままな滞在拠点として活用しているのかもしれません。
現在、美川さんは国内の青山マンション・ロサンゼルスの物件・バンコクの物件という複数の住まいを持つ、まさに国際的な生活スタイルを実現しています。
雨漏りするトタン屋根の家で育った美川さんが、世界各地に不動産を持つまでになったというのは、まさにシンデレラストーリーといえるでしょう。
現在の自宅・青山のマンション
世田谷の豪邸を売却した美川さんが現在(2023年以降)住んでいるのは、青山で購入した3LDKのマンションです。
「グッチやプラダなどのブランドショップが並び、交通に便利なあのエリアが、私にとっては理想的なんですよ」と語っています。
青山を選んだ理由
世田谷の豪邸は広すぎて一人では持て余してしまい、通いのお手伝いさんに管理してもらう形になっていたそうです。
「一人になって住んでみると、やっぱり広すぎて」ということで、生活の利便性を重視して青山のマンションに移りました。
ブランドショップが立ち並ぶ青山というロケーションも、美川さんのライフスタイルにぴったりです。
美川流・住まいに対する哲学
美川さんの住まいに対するスタンスはとても合理的です。
「家との出合いは、めぐり合わせやご縁だと思うんです。青山の自宅もロサンゼルスの家も、そこでしか味わえない楽しみがあって、その暮らしを満喫するために、仕事をがんばろうと思える」と語っています。
「年齢を重ねてしんどくなってきたら、手放せばいいじゃない。家を持つことに執着せず、成り行きにまかせて直感を大事にしてきた結果、素敵な家と何度も出合うことができて、本当にありがたいと思っています」という言葉は、住まいを人生の道具として使いこなしてきた美川さんならではの哲学です。
現在の健康と生活スタイル
美川さんは洞不全症候群という病気を経験しましたが、現在も元気に芸能活動を続けています。
「運動は嫌いなのよ。でも脚にきちゃうから、ぶるぶるマシンに乗ったり、スクワットしたり。食事は野菜、魚中心、時々お肉を食べています」と健康管理についても語っています。
「ズボンや下着をはくときは、立ったままはくようにしているの。それができるかどうかが健康のバロメーターね」というユニークな健康チェック法も。
そして1999年から毎年続けている「ドラマチックシャンソン」コンサートを通じて、現在も歌手として精力的に活動しています。
美川憲一の実家と生い立ちの総まとめポイント
- 美川憲一の本名は池田憲一で、1946年2月15日長野県諏訪市生まれ
- 2歳から東京・西新橋のトタン屋根2階建て(お風呂なし・雨漏りあり)で育った
- 実母・以し子さんは妻帯者に騙されて未婚のまま美川さんを出産した
- 以し子さんは肺結核を患い、2歳の美川さんを姉・米子さん夫婦に託した
- 養母・米子さんが昼夜問わず働いて借金を返しながら美川さんを育てた
- 養父は小学校低学年のときに脳出血で死去、以後家には差し押さえが入った
- 中学1年生のとき近所の人から出生の秘密を知らされた
- 芸能界を目指したきっかけは養母への恩返しのためお金を稼ぐことだった
- 1965年にデビュー、1966年「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚の大ヒット
- 30代に番組で実父と対面し土下座謝罪を受け入れた
- 1971年に赤坂のマンションを4,800万円で購入、インテリアを徹底的にこだわった
- 1993年(平成5年)に世田谷・深沢に総工費7億円の豪邸を建設
- 2人の母が「思い残すことはない」と言うのを聞き使命を果たしたと感じた
- ロサンゼルスとバンコクにも海外不動産を所有、LA物件は1994年購入で価値上昇中
- 現在は青山の3LDKマンションに住み、歌手活動を精力的に継続している

