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お笑いコンビ「おいでやすこが」のボケ担当として、M-1グランプリ2020で準優勝を果たしたこがけんさん。
その実家が福岡県久留米市にある大正創業100年超の老舗大衆居酒屋「古賀久」で金持ちあることをご存じでしょうか。
地元のふるさと大使にも就任したこがけんさんですが、実家の場所や両親、生い立ちまで掘り下げた情報はあまり知られていません。
あなたは、慶應義塾大学卒の芸人がなぜ板前修行を経てお笑いに戻ったのか気になっているのではないでしょうか。
この記事では、こがけんさんの実家・古賀久にまつわる家族のドラマと久留米時代の素顔を、本人発言や西日本新聞の取材を交えて整理します。
記事のポイント
①:大正創業100年超の大衆居酒屋古賀久が実家
②:母古賀廣子さんが現在の店主と判明
③:明善高校から慶應大学へ進んだ学歴
④:板前修業5年を経て芸人に戻った理由
こがけんの実家・福岡県久留米市の老舗居酒屋古賀久
- こがけんの実家がある福岡県久留米市六ツ門町の概要
- 大正時代から続く大衆居酒屋・古賀久の歴史
- 創業者・曽祖父の古賀久太郎と祖父・久米太郎
- 母親・古賀廣子の店主としての姿と口癖
- 姉2人の影響で育った洋楽好きの幼少期
こがけんの実家がある福岡県久留米市六ツ門町の概要
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こがけんさんの実家は、福岡県久留米市六ツ門町2-36に店を構える大衆居酒屋「古賀久(こがきゅう)」です。
まずは、こがけんさん本人と実家の基本情報を表で整理してみます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 古賀憲太郎 |
| 生年月日 | 1979年 |
| 2026年10月11日現在の年齢 | 47歳 |
| 出身地 | 福岡県久留米市 |
| 所属 | 吉本興業(東京NSC7期生) |
| コンビ | おいでやすこが |
| 実家の店 | 大衆居酒屋「古賀久」 |
| 店の住所 | 福岡県久留米市六ツ門町2-36 |
久留米市六ツ門町という立地の特徴
こがけんさんの実家がある六ツ門町は、西鉄久留米駅から徒歩圏にある中心市街地です。
古賀久はJR久留米駅まちなか口(東口)からも近く、西鉄久留米駅から866mの好立地に建っています。
久留米市は福岡県南部にある人口約30万人の都市で、ブリヂストン創業の地としても知られていますよね。
とんこつラーメン発祥の街でもあり、グルメ文化の中心地として親しまれてきました。
店の佇まいと営業スタイル
古賀久は11時30分から21時30分(L.O.21時00分)まで通し営業を続ける昼飲みの定番店です。
定休日はなく、正月とお盆のみ休業という地元密着の運営スタイルですね。
予算帯は2,000円〜3,000円台で、口コミ評価でも昼夜ともに気軽に使える店として支持を集めています。
2025年放送『さんま御殿』で再注目
2025年2月11日放送の『踊る!さんま御殿!!』にこがけんさんが出演し、明石家さんまさんに「すごっ!」と驚かれました。
店の外観写真が映し出されると、100年続く久留米の老舗酒場として全国的にも知られるきっかけになります。
実家がメディアで取り上げられるたびに、地元・久留米市の魅力も同時に発信されるかたちですね。
久留米の街並みと地元住民の評判
古賀久がある六ツ門町は、久留米シティプラザを中核とした再開発エリアの一部です。
かつては「日本一の大衆酒場街」と呼ばれた飲食街が広がっており、夜の繁華街と昼飲みの両方が成立する独特の文化が根付いてきました。
地元住民にとって古賀久は、家族の祝い事から仕事終わりの一杯まで使える「街の食堂」のような存在です。
写真投稿総数が356枚、口コミ件数が61件という数字も、長年地元で愛されてきた証ですよね。
現在の店主・廣子さんは、子どもの七五三や成人式の帰りに家族で訪れる久留米市民の姿も見守ってきました。
「100年酒場」としての風格と、誰もが入りやすい大衆店としての懐の広さが両立しているのが、古賀久最大の魅力だと言えるでしょう。
大正時代から続く大衆居酒屋・古賀久の歴史
古賀久の歴史をたどると、大正時代に曽祖父の久太郎さんが創業した、創業100年を超える老舗であることがわかります。
下記の表は、古賀久の歴史を時系列でまとめたものです。
| 時期 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 大正時代 | 曽祖父・久太郎が創業 | こがけん祖父の祖父にあたる |
| 戦後 | 祖父・久米太郎が二代目に | セルフ式を考案 |
| 1940年代 | 陳列棚スタイルを確立 | 当時としては画期的 |
| 現在 | 母・廣子が店主を継承 | 創業100年超 |
大正時代に久太郎が築いた創業期
古賀久は大正時代に曽祖父の久太郎さんが店を立ち上げました。
店名「古賀久」は創業者の名前「古賀久太郎(こがきゅうたろう)」に由来しているそうです。
こがけんさんは小学生の頃、『オバケのQ太郎』が放送されていたため、ひいおじいちゃんの名前は「こがひさし」だと友達に伝えていたといいます。
からかわれそうな響きを避けるための、子どもらしい工夫だったわけですね。
戦後の祖父・久米太郎によるセルフ式革命
戦後に二代目を継いだ祖父の久米太郎さんは、ガラスケースに料理を並べ客が自分で取るセルフ式を考案します。
1940年代当時としてはかなり珍しいスタイルで、安価で豊富なメニューが評判となり、あっという間に人気の酒場となりました。
「酒飲みを待たさないように」という発想から生まれた工夫だったとこがけんさんも語っています。
看板メニューはローストチキン
古賀久の名物料理として知られるのは、創業当初から続く「ローストチキン」です。
ジューシーで長年人気を誇るメニューで、観光客はもちろん地元の常連にも愛されています。
季節を問わず楽しめるおでんや一品料理も豊富で、コース料理は3,300円(税込)と5,500円(税込)の2タイプを用意していますよ。
コース料理と現代まで残る昼飲み文化
古賀久は11時30分開店という早い時間から営業を続け、昼飲みのできる店として久留米市民にも観光客にも知られています。
料理は94品、ドリンクは50種、ランチは3メニューと、メニュー数の多さも100年酒場ならではですよね。
3,300円のコースと5,500円のコースを使い分けることで、慶事から忘年会まで幅広く対応してきました。
こがけんさんも「壁一面が陳列棚になってて、酒飲みを待たさないようにってことでいっぱいつまみが並んでる」とテレビで語ったように、陳列棚に並ぶつまみをセルフで取れる方式は今も昼飲み文化の象徴です。
大正期から戦後を経て令和まで、時代の変化を受け止めながらコアの価値を変えなかった老舗の在り方は、地元のロールモデルでもあります。
創業者・曽祖父の古賀久太郎と祖父・久米太郎
こがけんさんの実家を語るうえで欠かせないのが、曽祖父の久太郎さんと祖父の久米太郎さんという二人の創業者です。
家系図にすると、こがけんさんは古賀家の四代目にあたる人物だとわかります。
| 続柄 | 名前 | 役割 |
|---|---|---|
| 曽祖父 | 古賀久太郎 | 大正期創業者 |
| 祖父 | 古賀久米太郎 | 二代目・セルフ式考案 |
| 母 | 古賀廣子 | 現店主 |
| 本人 | こがけん(古賀憲太郎) | 四代目世代 |
曽祖父・久太郎の創業精神
曽祖父・久太郎さんは大正期に古賀久を立ち上げ、地元・久留米に居酒屋文化を根付かせた人物です。
「古賀久」という店名そのものが久太郎さんの名前から取られたことからも、店と創業者の絆の深さがうかがえますよね。
戦前の久留米でいち早く大衆居酒屋という業態を始めた先見の明には、頭が下がります。
祖父・久米太郎が築いたセルフ式という発明
戦後を生き抜いた祖父・久米太郎さんは、ガラスケース陳列のセルフ式という独自スタイルを導入しました。
この革新によって古賀久は単なる町の居酒屋から、久留米を代表する大衆酒場へと飛躍します。
現代でこそセルフ式やビュッフェ形式は珍しくないものの、1940年代に確立したのは相当な革新性でした。
こがけんが受け継いだ古賀家のDNA
こがけんさん自身、後にNSC卒業後に下北沢の創作和食店「都夏(つげ)」で5年間板前修行を積んでいます。
料理人としてのキャリアを積んだ背景には、100年続く飲食一家の血が流れていたことが大きいと考えられますよね。
「家ではまったく料理しなかった」と語りつつも、本格フレンチや鶏肉のガランティーヌをこなす腕前は、まさに古賀家のDNAそのものです。
家系を支えた歴代当主の姿
古賀久を支えてきたのは、男性の創業者だけではありません。
祖母(久米太郎さんの妻)や母・廣子さんといった女将たちの存在が、店を100年以上回し続けてきた本当の主役だとも言えます。
セルフ式の陳列棚を毎日整え、料理を仕込み、常連客を覚えて声をかけるオペレーションは、女将の細やかな目配りなしには成立しません。
こがけんさんが「やっちゃん」という常連客のエピソードを軽妙に語れるのも、家庭の中で代々こうした店の話題が共有されてきたからなのです。
「2ヶ月に1回のペースで出禁と復活を繰り返す常連客」という逸話には、店主と客の独特の距離感がよく表れています。
古賀家は男性の創業者だけでなく、女性も含めた家族全員でひとつの暖簾を守ってきた一族なのですね。
大正・昭和・平成・令和と4つの元号を生き抜いた100年酒場には、こうした名もなき家族たちの日々の積み重ねが宿っています。
母親・古賀廣子の店主としての姿と口癖
こがけんさんの母親は、現在の古賀久の店主・古賀廣子(こが ひろこ)さんです。
母・廣子さんに関する判明している情報を整理してみます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 古賀廣子さん |
| 生年 | 1943年頃(2020年12月時点で77歳) |
| 役職 | 古賀久 現店主 |
| 口癖 | 「いつか店を継いでほしい」 |
| 夫について | 素材内では明示なし |
三代目女将としての廣子さん
廣子さんは、夫の古賀久米太郎さん(二代目)の跡を継ぎ、現在は古賀久の店主として店を切り盛りしています。
創業100年超の老舗を女性ひとりで守り続ける姿には、久留米の母らしい肝の据わった存在感がにじみますよね。
2025年の『さんま御殿』でこがけんさんが「うちの店」と紹介する古賀久は、廣子さんの店でもあります。
「継いでほしい」という口癖
廣子さんの口癖は「いつか店を継いでほしい」でした。
長男であるこがけんさんが慶應義塾大学を卒業しNSC東京校に入学した時も、当初は母に内緒だったそうです。
こがけんさんは「100年続く店を絶やしてはいけない」というプレッシャーと、自分の道を進みたい気持ちの間で揺れ続けていました。
M-1準優勝後の母との電話
2020年12月20日、M-1グランプリ決勝で1票差で準優勝した翌日、こがけんさんは母・廣子さんに電話します。
「頑張ったね」と喜んでくれた声に、「自分のやってきたことも間違いじゃなかった」とこみ上げるものがあったとこがけんさんは振り返ります。
苦節約20年、母にようやく芸人としての姿を認めてもらえた瞬間だったわけですね。
ここ、家族ドラマとしても胸を打つエピソードだと思います。
店主・廣子の人となりと地元での評価
廣子さんは77歳という年齢を感じさせないバイタリティの持ち主として、地元では知られた存在です。
店ではホールに立ち、カウンター越しに常連客と気さくにやりとりする姿が定番の光景となっています。
息子であるこがけんさんに対しては「店を継いでほしい」と語りつつも、芸人の道を歩むと決めた我が子を最終的には認めてきました。
「あんた頑張ってるね」という久留米弁の温かい一言には、100年の暖簾を背負う重さと、母としての無償の愛が同居しています。
2025年放送の『さんま御殿』で店の写真が紹介された際も、息子の活躍を裏方で支えてきた女将としての存在感が画面越しに伝わってきました。
地元紙『西日本新聞』の取材にも応じ、「自分のやってきたことも間違いじゃなかった」とこがけんさんに思わせた一言の主は、誰よりも息子の歩みを見てきた母なのです。
姉2人の影響で育った洋楽好きの幼少期
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こがけんさんは、2人の姉に挟まれて育った末っ子の長男です。
家族構成は以下の通り、母と姉2人と本人を中心とした女系家族でした。
| 続柄 | 本人との関係 | 備考 |
|---|---|---|
| 母 | 古賀廣子 | 古賀久店主 |
| 長姉 | 姉 | 洋楽好き |
| 次姉 | 姉 | 洋楽好き |
| 本人 | こがけん(古賀憲太郎) | 末っ子の長男 |
姉たちが家庭にもたらした洋楽カルチャー
こがけんさんは、母と姉2人の影響で幼い頃から洋楽を聴いて育ったと語っています。
当時のヒット曲やロック、洋楽全般が日常的にBGMとして流れていたといいます。
姉たちの趣味が、後の「歌ネタ」というこがけんさんの代名詞につながっていく原点になったわけですよね。
大学時代のユーロロック研究会
慶應義塾大学に進学したこがけんさんは、ユーロロック研究会の代表を務めました。
洋楽コピーバンドのボーカルとして活動し、その音楽歴がそのまま現在のステージにつながっています。
「どんな曲でも洋楽ロック風に歌う」芸風は、姉から受け継いだ音楽体験の蓄積なのです。
幼少期から続く家族の絆
家族の写真も公開されてはいませんが、姉たちは現在もこがけんさんの良き理解者として支えています。
母娘三人での店の手伝いや、家族そろっての音楽鑑賞といった日常風景が、「うちの店」と笑える今のこがけんを形づくった土壌なのですね。
新情報があれば、また更新していきます。
姉から学んだ洋楽の聴き方と現在のネタ作り
こがけんさんは、姉たちから「洋楽の聴き方」を体感的に教わりました。
歌詞を読み解くのではなく音の輪郭やボーカルの息遣いをそのまま吸収する聴き方は、ハリウッド映画モノマネにも応用されています。
「オーマイガー」と叫ぶハリウッド映画ものまねの抑揚は、姉と一緒に観た映画やMTVの記憶から作られているのです。
シャワーを浴びながら水音をリズムに歌ネタを作るというユニークな作法も、姉たちと自由に音楽を楽しんでいた幼少期があってこそ生まれた方法ですよね。
外出先でネタを作る時は水音のBGMを聞きながら作るというのも、家族との音楽体験が今も生き続けている証です。
姉たちが家庭にもたらしたカルチャーは、間違いなくこがけんさんの芸の核を形づくっています。
こがけんの実家と家族・芸人デビューまでの軌跡
- 福岡教育大学付属久留米小・中時代の中学デビュー
- 明善高校から慶應義塾大学への進学と音楽歴
- NSC東京校から下北沢・都夏での板前修業
- M-1グランプリ準優勝とくるめふるさと大使就任
- こがけんの実家と母への思いを総括
福岡教育大学付属久留米小・中時代の中学デビュー
こがけんさんの学歴は、福岡教育大学付属久留米小学校・中学校からスタートします。
地元の公立ではなく、国立大学附属の小中一貫校という選択は、教育熱心な古賀家らしい歩みでした。
| 学校 | 偏差値の目安 | 備考 |
|---|---|---|
| 福岡教育大学付属久留米小 | ― | 国立大学附属 |
| 福岡教育大学付属久留米中 | 県内トップクラス | 受験校 |
| 福岡県立明善高校 | 偏差値70前後 | 地元の名門公立 |
| 慶應義塾大学 | ― | 洋楽コピーバンド |
朝日新聞EduAでも語られた中学時代
朝日新聞EduAの「わたしの中学HISTORY」連載で、こがけんさんは福岡教育大学付属久留米中での「中学デビュー」を回想しています。
小学校までは目立たない子だったものの、中学進学を機にキャラクターを変え、人前で話す楽しさを覚えたといいます。
「何度でも自分にチャンスを与えて」という記事タイトルも、こがけんさんの人生哲学を端的に表す言葉ですよね。
付属久留米中で培われた表現力
付属中学では文化祭や課外活動が活発で、こがけんさんが歌や芸を披露する場面も少なくなかったそうです。
このころから「人を笑わせること」への手ごたえを感じ始めたといわれています。
のちのお笑い芸人としての素地が、すでに中学時代に形づくられていたわけですね。
家庭科5段階の5を取り続けた料理少年
中学1年の頃、トーストをアレンジしたピザトーストが「うまい!」と褒められたことが料理に目覚めた瞬間でした。
家庭科の調理実習でハンバーグやケーキを工夫して作り、家庭科の評価は5段階中の5を取り続けたそうです。
料理が楽しいと感じた最初の体験は、後の板前修業や食レポでの活躍につながっていきます。
付属中時代の友人関係と笑いの原点
付属久留米中時代のこがけんさんは、朝日新聞EduAのインタビューで「中学デビューでキャラ変した」と語っています。
小学生時代は引っ込み思案だったものの、新しい学校で同級生からのいじりを受けながらも持ち前のユーモアで切り返すうちに、自然とクラスの中心へと移っていきました。
「何度でも自分にチャンスを与えて」というEduA記事のメッセージは、当時の体験から導き出された彼の人生哲学そのものです。
中学校では文化祭の出し物や課外イベントで人を笑わせる楽しさを学び、「うけるかどうかを最優先する」感覚をすでに体得していました。
後の歌ネタやハリウッド映画モノマネの基礎にあるのは、付属中で身につけた「観客との距離感をコントロールする力」です。
同期生にはのちに地元医療や教育の分野で活躍する人物も多く、こがけんさんがM-1で全国に出たことを誰よりも喜んだといわれています。
明善高校から慶應義塾大学への進学と音楽歴
こがけんさんは付属久留米中から福岡県立明善高校に進学し、その後慶應義塾大学へと駒を進めます。
明善高校は久留米市にある福岡県内屈指の名門公立で、夏目漱石の小説『三四郎』のモデルとなった人物も卒業生に名を連ねます。
| 進学先 | 所在地 | 難易度・偏差値 |
|---|---|---|
| 福岡県立明善高校 | 福岡県久留米市 | 偏差値70前後 |
| 慶應義塾大学 | 東京都港区 | 私立最難関 |
明善高校でのバンド活動
明善高校時代のこがけんさんは、バンドを組みボーカルを務めていたと語っています。
姉から受け継いだ洋楽好きが、ステージに立つ第一歩へと結実していった時期ですね。
高校でも勉強と音楽の両立を貫き、地元の進学校から慶應大に進む実力を身につけました。
慶應義塾大学のユーロロック研究会で代表に
東京の慶應大に進学したこがけんさんは、ユーロロック研究会の代表を務めるほどに音楽に没頭します。
研究会では洋楽コピーバンドのボーカルとして活動し、ハリウッド映画モノマネのルーツもこの時期に培われていきました。
あなたが想像する以上に、慶應キャンパスは多彩なサークル活動の場で、ユーロロック研究会も独自の世界観を育む場所だったのです。
就職氷河期の挫折とお笑いとの出会い
大学卒業時は就職氷河期で、こがけんさんは活動に嫌気がさしていた時期でもありました。
そんな中、同級生に「お笑いをやろう」と誘われたことが転機になります。
「何となく」吉本興業の養成所NSC東京校に入った決断が、後の人生の分岐点となりました。
慶應キャンパスの仲間と研究会の文化
慶應義塾大学のユーロロック研究会は、ヨーロッパのプログレッシブロックやマニアックな洋楽を研究するサークルとして知られています。
こがけんさんはここで代表を務め、コピーバンドのライブ企画から会報誌の編集まで幅広くこなしました。
「人前で歌う」という経験を、研究会の活動を通じて何百回と積み重ねたことが、後にステージで物怖じしない芸人気質を形成します。
同級生・先輩・後輩との出会いも財産で、卒業後しばらくしてからもライブハウスで再会する仲間が複数いるそうです。
慶應大学のキャンパスは三田・日吉・矢上など複数あり、バンド活動の拠点を変えながら多彩なジャンルを横断する環境にも恵まれていました。
「慶應の無駄遣い」とのちにツッコまれることになる学歴も、研究会で培った「好きを突き詰める姿勢」があったからこそ、最終的に芸人として花開いたのです。
慶應大学のOB会では「あの研究会の代表が芸能界で活躍している」と話題になり、後輩たちにも刺激を与え続けています。
NSC東京校から下北沢・都夏での板前修業
東京NSC7期生として養成所に入ったこがけんさんは、卒業後わずか4ヵ月でお笑いの道を一度離れたことが知られています。
その後の歩みを時系列で見てみましょう。
| 時期 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 大学卒業後 | NSC東京校7期生として入学 | 母には内緒 |
| NSC卒業後 | 4ヵ月で芸人を辞める | 最初の挫折 |
| その後5年 | 下北沢の和食店・都夏で板前修業 | 追い回しから経験 |
| 2009年頃 | お笑いに復帰 | 歌ネタを武器に |
下北沢『都夏』で過ごした5年間
NSCを離れたこがけんさんは、下北沢の創作和食店「都夏(つげ)」で5年間板前修業を積みました。
「追い回し」と呼ばれる下積みポジションで、2年間毎日違うまかないを作り続けたといいます。
親方からは「店に来る前に段取りを頭の中でシミュレーションしろ」と教わり、料理人としての基礎を徹底的に叩き込まれました。
「食べる方が好きだ」と気づいた瞬間
5年間の板前修業を経て、こがけんさんは「俺、食べる方が好きだな」と気づきます。
テレビ番組『あちこちオードリー』でも語られたエピソードで、春日俊彰さんから「気づくのが遅い!」と鋭いツッコミを受けて爆笑を呼びました。
5年かけて気づいた回り道こそが、料理芸人・歌ネタ芸人という独自路線につながった、と言えるでしょう。
復帰後にアルバイトで月30万円稼いだ時期
お笑いに戻った直後、芸人の仕事はほとんどありません。
こがけんさんはSAPIXの国語講師や、渡辺プロダクションの清掃などのアルバイトを掛け持ちし、月およそ30万円を稼いでいたと語ります。
下北沢に15年住み続け、シャワーの水音をBGMに歌ネタを作るというユニークな手法も、この時期に確立しました。
板前時代に習得した料理術が芸風に活きる
都夏で身につけた料理の技術は、現在のテレビ番組でのアレンジレシピ披露にしっかりと生かされています。
『テレビ千鳥』で紹介した「炒めフレンチ」は子どもたちにも好評で、こがけん家の定番メニューになっているそうです。
板前時代の親方の教え「絶対に名前があるものを作れ」は、ネタ作りでも「まず基本の型を学んで崩す」という姿勢として息づいています。
10年ほど前の『ぷっスマ』では千原ジュニアさんのお抱えシェフとして、十数人分の鍋を3日前から仕込む本格派として腕を振るいました。
「鶏肉のガランティーヌ」「サルティンボッカ」など料理名のおもしろさで先輩を笑わせる工夫も、板前時代の段取り力と芸人としての構成力を併用した結果ですね。
料理芸人としてもう一つの顔を持てるのは、5年間の修業で得た揺るぎないベースがあるからこそです。
M-1グランプリ準優勝とくるめふるさと大使就任
苦節約20年、こがけんさんは2020年12月のM-1グランプリで準優勝を獲得しました。
同期のおいでやす小田さんとの即席ユニット「おいでやすこが」は、ピン芸人同士のユニットとしてM-1史上初の決勝進出という快挙でした。
| 年 | 出来事 | 備考 |
|---|---|---|
| 2019年 | R-1ぐらんぷり決勝進出 | 40歳でブレイク |
| 2020年 | M-1グランプリ準優勝 | 1票差の銀メダル |
| 2021年 | 歌ネタ王決定戦3位 | 個人としても注目 |
| 2021年11月 | くるめふるさと大使就任 | 恩師・同級生も来場 |
くるめふるさと大使就任式で見せた地元愛
2021年11月8日、こがけんさんは久留米シティプラザでくるめふるさと大使就任式に臨みました。
同期の芸人ケン坊田中さんやメタルラックらが駆けつけ、明善高校の在校生もサプライズで応援に訪れています。
こがけんさんは「久留米にはいろんな魅力があります。僕の手で久留米に人を呼びたいです」と意気込みを語りました。
映画好きとしての顔と『BRUTUS』掲載
こがけんさんは映画好き芸人としても知られ、noteで映画記事を執筆しています。
雑誌『BRUTUS』では2020年のシネマコンシェルジュに選出されました。
細か過ぎて伝わらないモノマネで「オーマイガー」と叫ぶハリウッド映画ものまねは、もはや代名詞ですよね。
家族と過ごす今の時間
こがけんさんは結婚しており、現在は2歳と4歳のお子さんをもつ父親としても育児に向き合っています。
「うちの親も手を抜ける部分は抜いてたはずだし」と、久留米時代の家庭の温度感を子育てに活かしている様子です。
古賀久を継いでいなくとも、別の形で母の願いに応え続けている、と感じますよね。
明善高校の同級生・地元との交流
くるめふるさと大使就任式には、明善高校時代の同級生や恩師がサプライズで駆けつけました。
会場では同窓生からのプレゼントや地元ならではのトークが飛び交い、就任後初のステージで久留米ならではのネタも披露されたといいます。
「久留米にはいろんな魅力があります。僕の手で久留米に人を呼びたいです」という発言は、地元の人々にとって涙ぐむほど嬉しい一言だったと地元紙でも報じられています。
こがけんさんは現在も帰省のたびに古賀久に立ち寄り、母や姉たちと食事を囲んでいるそうです。
『行列のできる法律相談所』や『あちこちオードリー』などのバラエティ番組で語られる久留米時代のエピソードは、まさに地元への愛そのものです。
付属久留米中の在校生に向けて講演する企画なども行われており、地域の若者にとっての身近なロールモデルとなっています。
こがけんの実家にまつわる総まとめ
- こがけんの実家は福岡県久留米市六ツ門町の老舗居酒屋
- 店名は「古賀久」で大正創業100年超の歴史
- 創業者は曽祖父の古賀久太郎さん
- 祖父久米太郎がセルフ式を考案し久留米の名物に
- 現在の店主は母の古賀廣子さん(77歳)
- 看板メニューはローストチキンで創業当時から続く
- 本名は古賀憲太郎で1979年生まれ
- 家族構成は母と姉2人と本人の女系家族
- 姉の影響で洋楽好きの少年時代を送る
- 福岡教育大学付属久留米小・中から地元の名門明善高校へ
- 大学は慶應義塾大学でユーロロック研究会代表
- NSC東京7期生で4ヵ月で辞め下北沢都夏で板前修業
- M-1グランプリ2020準優勝で母から「頑張ったね」
- 2021年にくるめふるさと大使就任で地元に錦
- 母の口癖「店を継いでほしい」に別の形で応える今

