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市原悦子さんの実家や生い立ちについて、気になっている方は多いのではないでしょうか。
「家政婦は見た!」や「まんが日本昔ばなし」で日本中に知られた名女優・市原悦子さんは、1936年1月24日に千葉県千葉市で生まれました。
父親の市原尊嗣さんは千葉興業銀行の創業期メンバーで常務まで務めた銀行マンという異色の経歴の持ち主。正義感が強く部下思いの父親像が、市原さんの女優としての演技の底流にも影響を与えたとされています。
この記事では、市原悦子さんの実家の場所や両親の職業、幼少期のエピソード、生い立ちについて詳しく整理します。
記事のポイント
①:出身地は千葉県千葉市、実家は銀行員一家
②:父親・尊嗣は千葉興銀の常務を歴任した人物
③:早稲田大学卒業後に俳優座養成所へ進んだ
④:樹木葬で千葉県袖ケ浦市の真光寺に眠る
市原悦子 実家と生い立ち|千葉市の銀行員一家で育った幼少期
- 市原悦子の実家がある千葉市とは
- 父親・市原尊嗣の職業と人物像
- 母親と家庭環境・幼少期のエピソード
- 早稲田大学進学と俳優の道へ
- 俳優座入団から結婚・夫・塩見哲との生活
市原悦子の実家がある千葉市とは
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市原悦子さんの実家は、千葉県千葉市にあります。
千葉市は現在でも政令指定都市として発展を続ける千葉県の県庁所在地で、市原さんが生まれた1936年当時は戦前の地方都市として落ち着いた雰囲気のある街でした。
千葉市という街の背景
千葉市は東京湾沿いに広がる商工業都市で、戦前から銀行・商業が盛んな地域でした。
市原さんが生まれ育った時代の千葉市は、金融機関が地域経済を支える重要な役割を担っており、父親・尊嗣さんが銀行員として活躍した背景には、こうした地域の産業文化がありました。
千葉市は後に市原悦子さん自身が故郷として公言する地でもあり、「千葉ふるさとむかし話」という民話集にも対談で登場するなど、晩年まで故郷との縁を大切にしていました。
市原さんは同書で「銀行に来てこういうことを言うのもなんですが、やっぱり世の中にはお金よりも大事なものがあるんだということを感じとってほしいですね」と語り、子供たちに向けた温かいメッセージを残しています。
実家の地域と環境
市原さんが育った千葉市の実家の具体的な住所は公開されていませんが、父親・尊嗣さんが千葉興業銀行に勤務していたことから、千葉市内の中心部近くで生活していたと推測されます。
千葉市は現在、中央区・花見川区・稲毛区・若葉区・緑区・美浜区の6区から成りますが、戦前から戦後にかけての中心地は現在の中央区周辺にあたるエリアで、銀行や商業施設が集積していました。
父親が勤務した千葉興業銀行の本店も千葉市内にあったことから、市原家は職住近接の環境で暮らしていたと考えられます。
千葉という土地は市原さんにとって生涯の原点であり、後年に樹木葬の地として千葉県袖ケ浦市の真光寺を選んだのも、千葉への深い愛着があったからかもしれません。
近所の評判と市原家の暮らし
市原さんの著書「ひとりごと」(春秋社)によると、実家での暮らしは父親・尊嗣さんの強い信念に基づいた家庭環境だったといいます。
父親は「こうと思ったことはどこまでも妥協しない」「曲がったことは許さない」という人物で、家庭内でも一本筋の通った生き方を貫いていたと記されています。
こうした家庭で育った市原さんは、幼い頃から強い正義感と誠実さを身につけ、それが後の女優としての演技の根幹になったとみられています。
周辺住民からの評判が直接記録されているわけではありませんが、千葉興銀の関係者によると父親・尊嗣さんは「とても正義感が強くて部下思いの方」として職場でも高く評価されていたといいます。
父親・市原尊嗣の職業と人物像
市原悦子さんを語るうえで欠かせない存在が、父親の市原尊嗣(たかし)さんです。
尊嗣さんは昭和27年(1952年)3月3日に誕生した千葉興業銀行(千葉興銀)の創業期メンバーの一人で、後に常務まで昇進した人物でした。
千葉興業銀行の創業と尊嗣さんの役割
千葉興業銀行は戦後の経済復興期に設立された地方銀行です。
戦時下の金融統制により「1県1行主義」が採られ、千葉県では千葉合同銀行や第九十八銀行などが合併して千葉銀行1行となっていました。
戦後になると、資金難で中小企業の倒産が相次ぎ、競争による銀行サービスの向上を望む声が大きくなりました。
そこで「千葉に1行だけではおかしい」と立ち上がった若い行員たちが千葉銀行を辞め、新たに千葉興銀を設立したのです。
尊嗣さんはその創業メンバーの一人であり、千葉興銀20年史では本店開店の中心人物の一人として「営業部部長 市原尊嗣」と紹介されています。
常務まで昇進した銀行マンとしての実績
尊嗣さんは千葉興銀の設立に携わった後、営業部長から着実にキャリアを積み上げ、最終的には常務まで昇進しました。
地方銀行の常務といえば、数百名から数千名の組織において経営の中枢を担うポジションです。
当時の銀行常務の年収は詳しく公開されていませんが、地方の名士クラスの収入を得ていたことは想像に難くありません。
千葉興銀の吉原三郎会長(当時)は、尊嗣さんについて「お父様はとても正義感が強くて部下思いの方でしたね。たとえ相手が上司でも、部下のために断固として意見をおっしゃいました」と市原悦子さんに語っていたといいます。
父親が娘・悦子に与えた影響
市原さんは著書「ひとりごと」の中で、父親のことを「仕事一筋」の人だったと振り返っています。
「こうと思ったことはどこまでも妥協しない」「曲がったことは許さない」という父親の生き方は、市原さん自身の人格形成に大きな影響を与えました。
銀行員の父親は当初、市原さんに銀行への就職を薦めていたほどで、親として娘の安定した将来を願っていたことがうかがえます。
しかし市原さんは演劇への夢を諦めきれず、俳優座養成所への道を選びました。
「家政婦は見た!」「おばさんデカ 桜乙女の事件帖」などのテレビドラマで見せた市原さんの演技の底流には、父親の正義感の影響もあったかもしれないと産経ニュースは評しています。
父親との思い出と亡くなった後の関係
父親・尊嗣さんが具体的に何年に亡くなったかは公開されていませんが、市原さんは義弟の証言によると「両親が亡くなってからも、お正月は(妹夫婦と)会っていました」とのことで、両親を早くに見送った後も家族の絆を大切にしていたことがわかります。
千葉興銀の民話集「千葉ふるさとむかし話」に掲載された対談では、当時「まんが日本昔ばなし」のナレーションを務めていた市原さんが父親ゆかりの銀行との対談を行い、子供たちへのメッセージを贈りました。
父親が勤めた銀行との縁でこのような対談が実現したことは、市原さんにとっても特別な思い出だったに違いありません。
母親と家庭環境・幼少期のエピソード
市原悦子さんの母親については、名前や詳細な職業は公開されていませんが、父親・尊嗣さんを中心とした銀行員一家として、千葉市で比較的裕福な環境で育ったと推測されます。
実家の家族構成と暮らしぶり
市原さんの実家の家族構成は、父親・尊嗣さん、母親、そして市原さんと少なくとも1人の妹(実妹)がいたことがわかっています。
市原さんが亡くなった際、都心の自宅マンションは遺言により実妹が相続しました。
妹の夫(市原さんにとっての義弟)が当時の思い出を語っており、市原さんが「まだ駆け出しだったころにテレビに出ると”どうだった?”と、私によく感想を聞いてきました」とのことで、姉妹の絆が深かったことが伝わってきます。
義弟によると、市原さんはプライベートでは仕事の話を一切しない人で、「仕事に対して忠実でしたが、プライベートも大切にする人」だったといいます。
幼少期の劣等感とバネになった出来事
市原さんは著書「ひとりごと」の中で、若い頃のある出来事について明かしています。
俳優座養成所時代に、憧れの男性スターからまじまじと顔を見られて出身を尋ねられた後、「千葉の顔だね」と言われて深く傷ついたというエピソードです。
市原さんは「年ごろでしょう。もう少し美人に生まれていたらなあと思っていたころだから。崩れ落ちるようなショックを受けたんです。後は、何も覚えていない」と当時の心境を綴っています。
しかしこのエピソードについて産経ニュースは、「正義感が強かったお父さんが聞いたなら、許さなかったのではないか」と評しており、父親譲りの正義感が市原さんの芯の強さにつながっていたことを示唆しています。
千葉という故郷が育んだ感性
千葉という土地は、市原さんの感性に深く刻まれた故郷です。
自然豊かな千葉の土地柄は、後に市原さんが「自然に囲まれるのが大好き」と語るほどの自然愛の原点になったとも考えられます。
市原さんは家の中にたくさんの観葉植物を置き、「カポック」という観葉植物を特に大事にしていたといいます。
緑で心を癒やしてから撮影に臨むというスタイルは、千葉の豊かな自然の中で育った幼少期の体験が根付いているのかもしれません。
そして最終的に、市原さんは千葉県袖ケ浦市の里山にある真光寺の樹木葬を選び、故郷・千葉の土に還ることを望みました。
早稲田大学進学と俳優の道へ
市原悦子さんは千葉市の高校を卒業後、早稲田大学第二文学部に進学し、演劇専修部を卒業しました。
銀行員の父親からは銀行への就職を薦められていましたが、演劇への夢を捨てきれず、俳優座養成所への進路を選択します。
大学時代の学歴と俳優座養成所
市原さんの学歴をまとめると以下の通りです。
| 学歴 | 詳細 |
|---|---|
| 出身大学 | 早稲田大学第二文学部(演劇専修部) |
| 卒業後の進路 | 俳優座養成所へ入所 |
| デビュー | 1957年、俳優座入団・「りこうなお嫁さん」でデビュー |
| 新人賞受賞 | 1957年、デビュー同年に受賞 |
| 芸術祭受賞 | 1958年、文化庁主催・芸術祭奨励賞を受賞 |
父親の薦めに従えば安定した銀行員の道があったにもかかわらず、演劇の夢を選んだ市原さんの決断は、父親の「こうと思ったことはどこまでも妥協しない」という精神を受け継いでのものだったのかもしれません。
俳優座での活躍と新人賞受賞
1957年に俳優座養成所を経て俳優座に入団した市原さんは、朝から晩まで稽古に明け暮れました。
「ハムレット」のオフィーリア役、「三文オペラ」のポリー役など多くの舞台で大役を務め、歌や踊りもこなす演技力で注目を集めました。
デビュー同年の1957年に新人賞を受賞し、翌1958年には文化庁主催の芸術祭奨励賞を受賞するという異例のスピードで演劇女優としての地位を確立しました。
児童劇「りこうなお嫁さん」でのデビューから始まり、着実に実力派女優としての評価を積み上げていった市原さんの軌跡は、千葉市の実家で培われた誠実さと粘り強さの表れともいえます。
演劇から映画・テレビへの活躍の場の拡大
舞台女優として頭角を現した市原さんは、やがて活躍の場をテレビドラマや映画へと広げていきます。
1975年から始まった「まんが日本昔ばなし」(TBS系)では、俳優の常田富士男さんと2人で約20年にわたってナレーションを担当しました。
「むかーし、むかし、あるところに…」という独特の語り口は日本中の子供たちの心に深く刻まれ、市原さんの代名詞となりました。
また「家政婦は見た!」(テレビ朝日系)では家政婦役を好演し、庶民的でありながら鋭い観察眼を持つキャラクターで長年にわたって人気を博しました。
映画では「金閣寺」「うなぎ」「黒い雨」などに出演し、「黒い雨」では第13回日本アカデミー賞の最優秀助演女優賞を受賞するなど映画女優としても高い評価を受けました。
俳優座入団から結婚・夫・塩見哲との生活

市原悦子さんのプロフィールと夫・塩見哲さんとの結婚生活についてまとめます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 塩見悦子(しおみ・えつこ) |
| 旧姓(芸名) | 市原悦子(いちはら・えつこ) |
| 生年月日 | 1936年1月24日 |
| 2026年04月13日現在の年齢 | 90歳(2019年1月12日没・享年82歳) |
| 出身地 | 千葉県千葉市 |
| 最終学歴 | 早稲田大学第二文学部(演劇専修部)卒業 |
| 所属 | ワンダー・プロダクション |
| 夫 | 塩見哲(演出家・享年80歳) |
| 結婚年 | 1961年 |
| 子供 | なし(2度の流産) |
| 死因 | 心不全(2019年1月12日死去) |
同期との恋愛と1961年の結婚
市原さんが夫・塩見哲さんと出会ったのは、俳優座養成所時代のことです。
塩見さんは俳優座養成所時代の同期で、演出家として活躍した人物でした。
1961年に結婚した2人は、その10年後には俳優座を退団し、ふたりでプロダクションを立ち上げました。
共に演劇の世界で生きる「おしどり夫婦」として知られ、知人によると「家にいても演劇仲間だったという関係の2人は、おしどり夫婦として知られていました」とのことです。
子供を望んだが叶わなかった夫婦の絆
市原さん夫妻は子供を望んでいましたが、2度の流産に見舞われ、子供を授かることはできませんでした。
それ以来、2014年に塩見さんが亡くなるまで、夫婦2人で支え合ってきた53年間の結婚生活でした。
子供がいないことについて、市原さんは後年、千葉県袖ケ浦市の真光寺の樹木葬を選んだ理由として「お子様がいないので、誰にも面倒はかけたくない」と語っていたことが知られています。
また、市原さんが亡くなった際のマンションの相続も実妹に委ねており、子供がいないながらも最後まで身近な家族を大切にしていた姿勢がうかがえます。
夫を亡くした後の市原さん
2014年、夫の塩見哲さんが肺がんのため80歳で他界しました。
長男だった塩見さんには家の事情もあり、最愛の夫を失った市原さんは自宅に2か月ほど引きこもったこともあったといいます。
塩見さんが亡くなる数か月前、市原さんと塩見さん夫妻、そして20年来の親交があるゴダイゴのリーダー・ミッキー吉野さんと市原さんのめいの4人で、首都圏近郊を1日かけて回り、自然の中で眠る場所を探し回ったといいます。
その結果として選ばれたのが、千葉県袖ケ浦市にある真光寺の樹木葬でした。
塩見さんはエノキの木の下に眠り、5年後の2019年に市原さんも同じ場所で夫の隣に眠ることになりました。
市原悦子 実家から晩年まで|難病・闘病と自宅マンションの暮らし
- 都心マンションの暮らしと自宅環境
- 難病・自己免疫性脊髄炎との闘い
- 樹木葬を選んだ理由と千葉との縁
- 義弟が語る市原悦子の素顔と信念
- 2019年の死去と通夜・告別式の様子
都心マンションの暮らしと自宅環境
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市原悦子さんが晩年を過ごした自宅は、東京都心の一等地に立つ真っ赤な外観の瀟洒なビンテージマンションでした。
千葉市の実家から上京し、半世紀以上にわたって女優として東京で活躍した市原さんの暮らしぶりは、実家時代とは大きく異なるものになっていました。
2戸をメゾネット改築した贅沢な住まい
市原さんが住んでいた都心マンションは、もともと住んでいた部屋に加えて、真上の部屋も追加で購入し、2戸をメゾネットに改築したものでした。
同じマンションの住民によると「もともと住んでいた部屋があり、その真上の部屋も追加で購入して、2戸をメゾネットに改築したそうです。ひと部屋は稽古場としても使い、よく俳優仲間も来ていたそうですよ」とのことです。
マンション内には市原さんが住んでいた部屋と同じくらいの広さの別の部屋が9,000万円以上で売りに出されていたという情報があり、都心の超一等地にある高級物件であることがわかります。
市原さんが亡くなった後、このマンションは遺言により実妹が相続しました。
自然愛に溢れた室内環境
市原さんは常々「自然に囲まれるのが大好きなんです」と語っており、家の中にもたくさんの観葉植物を置いていました。
特に「カポック」という観葉植物を大事にしており、緑で心を癒やしてから撮影に臨んでいたといいます。
千葉市の実家で育った頃から自然や植物への愛着があったであろう市原さんにとって、観葉植物に囲まれた都心のマンションが終の棲家となりました。
告別式の祭壇も「自然に囲まれるのが大好きだった」という意思に沿って、モンステラなどの10数種類の観葉植物で囲まれた「森の中で眠っているイメージ」を再現したものが用意されました。
近隣住民との交流と素顔
同じマンションの女性住民によると、市原さんは「”あなた、どこにお参りしているの? 靖国神社なんか行っちゃダメよ。せめて神田明神にしなさい”って、あの調子で説き伏せてくるのよ」と笑いながら語っており、テレビで見せる顔と変わらないざっくばらんな素顔があったようです。
近所にある靖国神社を避けていたのは、夫・塩見さんが戦争を強く嫌っていたことの影響で、市原さん自身も反戦の立場を貫いていました。
以前は若手俳優仲間を引き連れて食事に出て、お会計はすべて市原さんが持っていたという気前の良さも伝えられており、千葉の実家で育まれた人情味ある人柄が東京でも変わらず発揮されていたことがわかります。
難病・自己免疫性脊髄炎との闘い
市原悦子さんは2016年11月、自己免疫性脊髄炎という難病を発症し、長期にわたる闘病生活を余儀なくされました。
突然の発症と入院
それまで健康だった市原さんに突然、手足のしびれや痛み、かゆみや寒気などの症状が現れました。
知人によると「救いようのない症状に”もうダメだ”と絶望して、錯乱状態で入院した彼女は、当時のことをほとんど覚えていない」とのことです。
自己免疫性脊髄炎とは、何らかの原因で体内の抗体が自分の体を攻撃し、脊髄に炎症が起こる難病です。
手足が動かなくなったり、麻痺や感覚障害、排尿や排便に支障が出ることがある深刻な病気で、薬物投与とリハビリが治療の中心となります。
NHK大河ドラマの降板とリハビリ生活
病気の影響で、決定していたNHK大河ドラマ「西郷どん」のナレーションを2017年11月に降板することになりました。
昨年夏前にはリハビリ専門病院から退院して自宅に戻りましたが、外出の数は極端に減りました。
活動休止期間は1年4か月に及びましたが、2018年3月に「おやすみ日本 眠いいね!」(NHK)内の「日本眠いい昔ばなし」コーナーで仕事復帰を果たしました。
その際、外出できない状態のため、テレビ局のスタッフが自宅を訪れるという異例の自宅収録が行われました。
自宅ベッドでのナレーション収録と回復への意志
最初の数回は自宅のベッドの上でパジャマ姿のままで朗読を収録しました。
その後は車椅子に座っての収録に切り替わり、リハビリを続けながら少しずつ回復していきました。
「市原さんは自宅で決死の収録に臨んでいます。収録のため自宅を訪れるスタッフの前で、最低でも3分、自分の足で立ってお話をすることが彼女の今の目標。そして、いずれ車椅子なしで舞台に出たいと言っているそうです」と芸能関係者は語っていました。
声を維持するため、自宅に友人を呼んで一緒に歌を歌うことで腹筋を鍛え、「出さないでいると声は縮んで小さくなっちゃうのよ」と常に大きな声を出すよう心がけていたというエピソードが残っています。
2018年12月の盲腸入院と最期
難病からのリハビリを続けていた市原さんでしたが、2018年12月に今度は盲腸で入院することになりました。
一度は退院したものの、2019年1月になって体調を崩して再び入院。
2019年1月12日午後1時31分、心不全のため東京都内の病院で死去しました。享年82歳でした。
所属事務所のワンダー・プロダクションが連絡先となり、告別式は1月18日午前11時から東京・青山葬儀所で行われました。
樹木葬を選んだ理由と千葉との縁
市原悦子さんが最終的な安息の地として選んだのは、千葉県袖ケ浦市にある曹洞宗・真光寺の樹木葬でした。
2014年の最初の訪問と夫・塩見さんの埋葬
市原さんが真光寺を初めて訪れたのは2014年5月。夫の塩見哲さんを亡くしたばかりのことでした。
曲がりくねった山道を車で上っていくと、山の中腹に植えられて数年の木々が点在するエリアが広がる里山の風景が広がっていました。
真光寺事務局の椎野靖浩さんは、市原さんの独特の声ですぐに気づいたといいます。
「桜の木が人気ありますよ」と説明しても「好きじゃない」、「富士山が見えますよ」と空を見上げると「富士山も嫌い」とにべもない市原さんでしたが、6メートル以上あるエノキを見上げると「ああ、これがいい。一番きれい」とようやく笑顔を見せました。
2区画購入と「せいせいした」という言葉
市原さんは2区画(約2坪)を購入し、エノキの苗木を植えました。
区画の中央に花を飾り、「塩見哲」「市原悦子」と彫られた20センチ角の御影石を置くと、「あー、せいせいした」とふっ切れたように笑ったといいます。
「暗い骨壺の中で眠るのは嫌だ。ふわふわとした空、木の下で眠りたい」という市原さんの言葉には、自然を愛した彼女らしさが溢れています。
「お子様がいないので、誰にも面倒はかけたくないから」という理由も、樹木葬を選んだ大きな動機の一つでした。
故郷・千葉の里山に眠る
千葉市の実家に生まれ、銀行員の父親・尊嗣さんのもとで育った市原さんが、晩年に千葉県内の里山の樹木葬を選んだことには、故郷への深い愛着が感じられます。
真光寺は千葉市内から車で1時間ほどの場所にあり、生まれ育った千葉の土地と近い場所でもあります。
墓碑には本名の「塩見悦子」ではなく、ファンが訪れたときにわかるよう旧姓の「市原悦子」と刻まれました。
これは市原さん自身の「それじゃあ、ファンの方がいらしてもわかんないわね」という言葉によるもので、最後まで多くのファンへの思いやりを持ち続けていた市原さんらしいエピソードです。
義弟が語る市原悦子の素顔と信念
市原悦子さんの義弟(実妹の夫)は、姉・市原悦子さんの素顔について貴重な証言を残しています。
マンションを相続して管理を続ける義弟
市原さんが亡くなった後、都心のマンションは遺言により実妹が相続しました。
義弟によると「マンションを相続したのは、姉の遺言です。売ったり、貸したりしたらと言われますが、今のところは考えておりません。マンションには毎週行って、掃除をして、何日か泊まったりして管理しています」とのことです。
遺品の整理もこれからどうするか考えるという段階で、市原さんが残した生活の痕跡を大切に守り続けている様子が伝わってきます。
反戦への信念と夫・塩見さんからの影響
市原さんが靖国神社へのお参りを避けていた理由について、義弟は「旦那の塩見さんが、とにかく戦争を嫌っていました。その影響で、姉も反戦だったんですよ」と明かしています。
市原さんは2014年に安倍政権が集団的自衛権を閣議決定した際、すぐに反対の姿勢を表明しました。
著書の中でも「戦争をなくすこと、世界の問題と関わることも、女優の大事な仕事」と記しており、女優としての社会的責任を強く意識していたことがわかります。
この信念は、「曲がったことは許さない」という父親・尊嗣さんの精神と重なるものでもあります。
プライベートと仕事を分けた生き方
義弟によると、市原さんは「普段、私たちといるときは、お仕事の話はいっさいしませんでした。仕事に対して忠実でしたが、プライベートも大切にする人で。両親が亡くなってからも、お正月は会っていました」とのことです。
「まだ駆け出しだったころにテレビに出ると”どうだった?”と、私によく感想を聞いてきました。舞台にも呼んでくれて何度も見に行きました。そのときも感想を聞いてきました。同業者やファンよりも、遠慮しない親族の意見を求めていましたね」という姿は、千葉の実家で育まれた家族への信頼と絆を感じさせます。
また麻雀好きとして報道されていましたが、義弟によると「月に2回ぐらいやる程度でした」とのことで、メディアのイメージと実際の姿が必ずしも一致していない面もあったようです。
お墓参りに訪れるファンへの思い
真光寺の職員によると、市原さんが亡くなった後も年配の女性ファンを中心に多くの人がお墓参りに訪れているといいます。
「今年に入ってからも、命日が近いということで、さっそく来られていましたよ。ご年配の女性が多いですね。ご家族のお墓参りに来た方も”市原さんのお墓はどこですか?”と、よく聞かれます」という状況は、市原さんが日本中の人々に愛され続けていることを物語っています。
墓碑の戒名は「遊戯悦楽信女(ゆうぎえつらくしんにょ)」。豊かな緑の森の中で、市原悦子さんは今も静かに喜びと楽しみを感じているかもしれません。
2019年の死去と通夜・告別式の様子
2019年1月12日、市原悦子さんは心不全のため東京都内の病院で静かに息を引き取りました。享年82歳でした。
通夜に600人が参列
1月17日、東京・青山葬儀所で通夜が営まれました。
芸能関係者を中心に約600人が訪れ、名女優との別れを惜しみました。
祭壇はコチョウラン、モンステラなどさまざまな種類の観葉植物の緑色を強調した個性的なもので、「生前の意思に沿って、森の中で眠るような姿をイメージしました」と関係者が語る、市原さんが愛した自然の緑に満ちた空間となりました。
NHK大河ドラマ「秀吉」共演の竹中直人らの言葉
NHK大河ドラマ「秀吉」(1996年)で親子役で共演した竹中直人さんは、「市原さんの肌の柔らかさや、手のぬくもりが忘れられない」と目を赤くしながら思い出を語りました。
市原さんは秀吉の母「なか」役で、秀吉を深く愛しながらも時には厳しく叱責する役柄でした。
竹中さんは「あの笑顔で、あの声が忘れられません。僕を見るまなざしだけで僕にとっては十分でした」と目を細めました。
淡い緑色の棺と愛用品とともに
棺は淡い緑色のもので、台本を読む時に使用していた眼鏡、手鏡、愛用の洋服などゆかりの品々が納められました。
市原さんの著書「ひとりごと」と写真集も棺に入れられたといいます。
会場の通路には過去に写真展で展示された市原さんの白黒写真のパネルが多数並べられ、参列者は幅広く活躍したありし日の姿をしのびました。
市原さんが歌う「年老いた女役者の歌」が流れる中で出棺し、その後希望通り、千葉県袖ケ浦市の真光寺の樹木葬に埋葬されました。
夫・塩見哲さんが眠るエノキの木の下に、市原さんも静かに加わりました。
告別式には約500人が参列し、1月17日の通夜と合わせると、芸能界関係者・ファン・知人など多くの人が名女優との別れを惜しみました。
千葉市に生まれ、東京で女優として半世紀以上活躍し、最後は故郷・千葉の里山に眠った市原さん。「家政婦は見た!」や「まんが日本昔ばなし」を通じて届けてくれた温かさと正義感は、今も多くの人の心に生き続けています。
「樹木葬の人気に火をつけたひとりは、間違いなく市原悦子さん。彼女の死後、多くの見学者がくるようになった」と真光寺の椎野さんは振り返っており、市原さんの生き方と死に方が多くの人の終活観に影響を与えたことがわかります。
市原悦子 実家と生涯|千葉から東京、そして千葉へ戻った総まとめ
- 市原悦子さんは1936年1月24日、千葉県千葉市に生まれた
- 父親・市原尊嗣さんは千葉興業銀行の創業期メンバーで常務まで昇進した銀行マン
- 尊嗣さんは「正義感が強く部下思い」と職場でも高く評価されていた人物
- 母親の詳細は非公表だが、銀行員一家として比較的裕福な環境で育ったと推測される
- 実妹が1人おり、市原さんの死後も自宅マンションを相続して管理している
- 早稲田大学第二文学部(演劇専修部)卒業後、俳優座養成所へ進んだ
- 父親からは銀行への就職を薦められていたが、演劇の夢を選んだ
- 1957年デビュー同年に新人賞、翌年に文化庁芸術祭奨励賞を受賞した
- 1961年に俳優座養成所の同期・塩見哲さんと結婚し53年間の結婚生活を歩んだ
- 2度の流産で子供はなく、夫婦2人で支え合った
- 晩年は皇居近くの都心高級マンションに居住、2戸をメゾネット改築した住まいだった
- 2016年に自己免疫性脊髄炎を発症し長期闘病、自宅ベッドでナレーション収録を続けた
- 2014年に夫・塩見さんが他界後、千葉県袖ケ浦市の真光寺に樹木葬を生前契約した
- 墓碑には本名「塩見悦子」ではなくファンのために「市原悦子」と刻まれている
- 2019年1月12日に心不全で死去、夫が眠るエノキの木の下に並んで葬られた

