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尾藤イサオさんの実家や生い立ちについて、詳しく知りたいという方は多いのではないでしょうか。
尾藤さんは1943年11月22日生まれ、東京都台東区御徒町出身の歌手・俳優・ジャグラーです。本名は尾藤功男(びとう いさお)。代表曲「悲しき願い」(1964年)や、「あしたのジョー」の主題歌で広く知られています。
幼少期は3歳で父を亡くし、10歳で母を失うという壮絶な環境のなかで育ちました。曲芸師の内弟子として生計を立てながら、プレスリーへの憧れから歌手の道を歩み始めた波乱の人生は、多くのファンを驚かせてきました。この記事では、尾藤イサオさんの実家の場所や両親のこと、幼少期の生い立ちを詳しく整理します。
記事のポイント
①:出身地は東京都台東区御徒町(浅草近郊)
②:父親は3代目松柳亭鶴枝の寄席芸人
③:3歳で父・10歳で母を亡くした波乱の幼少期
④:長女・尾藤桃子は歌手として活躍中
尾藤イサオの実家のある台東区御徒町|両親の職業と波乱の幼少期
- 尾藤イサオさんの実家は台東区御徒町
- 父親・3代目松柳亭鶴枝とはどんな人物か
- 母親も芸人だった家庭環境と3歳での父の死
- 10歳で母を失い兄弟だけの生活へ
- 曲芸師の内弟子として歩んだ幼少期
尾藤イサオさんの実家は台東区御徒町|浅草との深い縁
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尾藤イサオさんの実家がある場所は、東京都台東区御徒町です。
上野や浅草まで徒歩圏内の下町エリアで、尾藤さん自身が2022年のインタビューで「僕はこの近くの御徒町で生まれたんです。上野や浅草はすぐ近所」と語っており、この地が生まれ育った場所であることが本人の口から明言されています。
御徒町・浅草エリアと尾藤さんの関係
台東区御徒町は、江戸時代から続く東京の下町文化が色濃く残るエリアです。
上野アメ横や浅草寺、東京スカイツリーにも近く、寄席や演芸場が多い地域として知られています。尾藤さんはこのエリアで生まれ育ち、幼少期から芸能の世界と隣り合わせの環境に身を置いていました。
本人は「昔はフランス座(浅草東洋館)のすぐ前に瓢箪池っていう大きな池があって、子供の頃はそこでよく友達たちと集まって遊んでいました」と語っています。
浅草という土地は尾藤さんにとって単なる出身地ではなく、子供時代の遊び場であり、芸能の修行場でもあった、特別な場所なのです。
現在も浅草に縁のある活動スタイル
尾藤さんは現在も浅草・東洋館(フランス座演芸場)でのライブを精力的に行っています。
2022年6月には「尾藤イサオ&高道 ジョイントライブ」をフランス座で開催し、「この会場が決まった時は嬉しかった」と喜びをあらわにしていました。
長年にわたって芸能活動の拠点としてきた浅草という地と、今も変わらない絆を持ち続けているのが尾藤さんらしさといえます。
御徒町界隈の下町気質が、エネルギッシュで庶民的な尾藤さんのキャラクターを形づくったともいえるでしょう。
実家近辺の雰囲気と尾藤さんの銭湯好き
御徒町・浅草エリアは、昭和の雰囲気が残る銭湯が多いことでも知られています。
尾藤さん本人も「昔から銭湯は好きですね。一緒に行く友達も何人かいるんです。この前はジョン・カビラさんとご一緒しました」とインタビューで語っており、地域の銭湯文化に親しんできた様子が伝わってきます。
実家のある下町の生活スタイルが、現在の尾藤さんの日常にも自然に溶け込んでいるのです。
父親・3代目松柳亭鶴枝|寄席芸人だった父の生涯
尾藤イサオさんの父親は、3代目松柳亭鶴枝(しょうりゅうていかくし)という名の寄席芸人でした。
百面相や形態模写を得意とした落語家・寄席芸人として知られており、当時の寄席文化を支えた実力者だったとされています。
父・松柳亭鶴枝の芸風と活動
3代目松柳亭鶴枝は、百面相や形態模写という特殊な芸を得意としていました。
百面相とは表情を次々と変えて人を笑わせる寄席芸で、高い技術と豊かな表現力が求められる演目です。落語や漫談とはまた異なる、身体表現を駆使した芸能の世界で活躍していた芸人でした。
尾藤さんが後に歌手としてだけでなく、曲芸師・ジャグラー・声優・俳優とマルチな才能を発揮したのは、父親ゆずりの多彩なエンターテイナー気質が根底にあるからかもしれません。
3歳で父を亡くした衝撃
しかし、尾藤さんはわずか3歳で父親を亡くしてしまいます。
1946年頃、戦後間もない時代のことです。まだ記憶も定かでない幼い年齢での父の死は、その後の家庭環境を大きく変えることになりました。父を失った後は、芸人だった母親が芸事で家計を支える日々が続きます。
尾藤さん自身も「3歳で父を亡くした」と複数のインタビューで語っており、この事実が彼の人生の出発点となっています。
父の芸人という職業が与えた影響
父が寄席芸人であったことは、尾藤さんの芸能への感性に少なからず影響を与えたと考えられます。
物心つく前に亡くなったとはいえ、芸人の家系という環境は家庭の空気そのものに芸能が染み込んでいたはずです。母親も芸人であり、兄も芸の道を歩んでいたことを考えると、尾藤さんが芸能の世界に引き込まれたのは必然だったのかもしれません。
「芸人の血が流れている」という意識が、舞台に立ち続けることへの原動力になっているのではないでしょうか。
後に尾藤さんが自らの公式プロフィールで「幼い頃から芸人の世界に身をおきました」と表現しているように、芸能との縁は生まれる前から決まっていたようなものでした。
百面相や形態模写という、瞬時に表情を切り替え観客を沸かせる父の芸は、尾藤さんが後に舞台で見せるエネルギッシュなパフォーマンスや豊かな表現力と、どこか通底しているように思えます。
明確に「父から何かを受け継いだ」と語る機会は少ないですが、芸を生業とする一家に生まれた事実が、尾藤さんの芸能人としての土台を作り上げたのは間違いないでしょう。
母親も芸人だった家庭環境|三味線奏者として家計を支えた母
尾藤イサオさんの母親は三味線奏者の芸人でした。
父が寄席芸人だったのと同様に、母親も芸の世界に身を置く人物で、父亡き後は兄とともに芸事で家計を支え続けた働き者の女性でした。
母親の三味線芸人としての生活
三味線は日本の伝統的な弦楽器で、寄席や花柳界での演奏を生業とする芸人も多くいました。
尾藤さんの母親は、父を亡くした後も、長男(尾藤さんの兄)とともに芸能界で働き、子供たちを養っていたとされています。戦後の混乱期に女性が芸で家族を支えるというのは、並大抵の苦労ではなかったはずです。
尾藤さんが後に「給食費を払うのも大変だった」「姉が汁粉屋でバイトして40円くらいをもらった」と語っているように、家庭の経済状況は決して豊かではなかったのです。
10歳で母を亡くした悲劇
しかし、母親も尾藤さんが10歳の時に亡くなってしまいます。
父を3歳で亡くし、わずか7年後に母親まで失うという二重の悲劇です。1953年頃のことで、尾藤さんはまだ小学生でした。両親を10歳までに全員失うという体験は、尾藤さんの人生観や精神的な強さに大きな影響を与えたことは想像に難くありません。
現在も「最後まで芸人でありたい」と語り続ける尾藤さんの根底には、どんな境遇でも前を向いてきた強さがあるように感じます。
母が残した芸能への情熱
母親が芸人として懸命に生きた姿は、幼い尾藤さんの目にどのように映っていたのでしょうか。
言葉で直接教わったわけではなくても、芸を通じて生きていくという姿勢は、家庭の空気から自然に伝わっていたはずです。「歌っても演じても、いかにお客さんに楽しんでいただくか。デビュー以来、一貫して私のテーマとしております」という尾藤さんの言葉には、親から受け継いだ芸人魂が宿っています。
母親が三味線を弾いて収入を得ていた姿、兄が芸能の道に進んだこと、そして自分も10歳から曲芸師として舞台に立ったこと。これらの経験は、「お客さんに喜んでもらうために全力を尽くす」という芸人の本質を、幼い尾藤さんの体と心に刷り込んでいったはずです。
「芸能は家業である」という意識が根底にあるからこそ、現在も82歳を超えてなお舞台に立ち続けることが自然に感じられるのだと思います。
母の存在は短くも濃く、尾藤さんの生き方の核心を形成した大切なものでした。
10歳から曲芸師に|兄弟だけで生き延びた幼少期
両親を相次いで亡くした尾藤さんは、10歳という幼さで大神楽芸人・鏡味小鉄の内弟子に入ることになります。
兄弟だけでは生活が困難になったためで、曲芸師の家に預けられる形での新生活が始まりました。
鏡味小鉄の内弟子として
鏡味小鉄は、大神楽(だいかぐら)という日本の伝統芸能を専門とする曲芸師です。
尾藤さんは鏡味鉄太郎という芸名を名乗り、太神楽の曲芸師として修行を積みました。傘回しや皿回し、鞠(まり)を使った芸など、高度な技術を要する曲芸を日々練習する生活が始まります。師匠・小鉄のもとには兄弟子の小次郎もおり、3人で共演することもあったとされています。
当時の収入について尾藤さんは「大卒の会社員の何倍も稼いでいた」と語っており、内弟子ながらも曲芸師として相当な実力と収入を得ていた様子がうかがえます。
給食費を姉に借りた幼少期の苦労
それでも幼少期の生活は楽ではありませんでした。
尾藤さんは「給食費が40円だったか、20円だったか。1週間ぐらい前に先生から『月曜日に持って来いよ』と言われる。でも、初めからうちにはお金がないのわかっていますから。姉が汁粉屋でバイトしていて、『イサオいくらなんだい』って言って30円か40円くらいをもらうということが何回かあった」と打ち明けています。
芸能一家に生まれながら経済的に苦しい幼少期を送った経験が、現在も「よく食べてよく寝る」というシンプルな生活習慣を大切にする姿勢につながっているのかもしれません。
アメリカ巡業でプレスリーへの夢が確信に
曲芸師時代の1960年、尾藤さんは師匠・鏡味小鉄の一座とともにアメリカへ渡ります。
「ジャパニーズ・スペクタクルショー」という興行での約1年間の渡米でした。現地でナット・キング・コール、フランク・シナトラ、そして何よりサミー・デイビスJr.のステージを目の当たりにし、歌手・エンターテイナーへの夢が確信に変わります。帰国した1961年3月に師匠に「曲芸師をやめて歌手になります」と宣言し、まったく新しい人生のスタートを切ったのです。
尾藤イサオの実家を出てからの家族|結婚歴と長女・桃子の実家との関係
- 尾藤イサオさんの結婚歴と家族構成
- 長女・尾藤桃子の歌手活動と父との関係
- 現在の生活スタイルと孫娘との暮らし
- 浅草・御徒町エリアとの現在の関わり
- 82歳になっても現役を続ける秘訣
尾藤イサオさんの家族構成|結婚歴と長女・桃子
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尾藤イサオさんの家族について、プロフィール表とともに整理します。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 尾藤功男(びとう いさお) |
| 生年月日 | 1943年11月22日 |
| 2026年04月13日現在の年齢 | 82歳 |
| 出身地 | 東京都台東区御徒町(浅草近郊) |
| 身長・体重 | 168cm・55kg |
| 血液型 | A型 |
| 職業 | 歌手・俳優・ジャグラー・声優 |
| 父親 | 3代目松柳亭鶴枝(寄席芸人)※3歳時に死去 |
| 母親 | 三味線奏者の芸人 ※10歳時に死去 |
| 長女 | 尾藤桃子(歌手) |
| 孫 | 孫娘3人(「イサちゃん」と呼ばれている) |
長女・尾藤桃子の歌手活動
尾藤さんの長女は尾藤桃子さんという歌手です。
父と同じ芸能の道を選んだ桃子さんは、歌手として活動しています。父親譲りの歌声と芸能一家の血を引く表現力で、コンサートやイベント出演など幅広く活躍しています。尾藤さん自身も娘の活動を温かく見守っており、親子で芸能界に携わるという形が続いています。
尾藤さんから娘・桃子さんへと受け継がれた芸能の血脈は、まさに3代目松柳亭鶴枝から始まった芸人家系のDNAが続いているともいえます。
孫娘3人に「イサちゃん」と呼ばれる現在
2018年に放送されたテレビ朝日系「徹子の部屋」に出演した尾藤さんは、「現在は3人の孫娘に『イサちゃん』と呼ばれ幸せいっぱいの生活を送っている」と語りました。
波乱万丈の幼少期を経て、3歳で父を亡くし10歳で母を失い、曲芸師として生計を立て、歌手としてスターになった尾藤さんが、今は孫娘たちに囲まれて穏やかな日々を過ごしている姿は、何とも感慨深いものがあります。
尾藤さんの家族年表
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1943年11月22日 | 東京都台東区御徒町で誕生 |
| 1946年頃(3歳) | 父・3代目松柳亭鶴枝が死去 |
| 1953年頃(10歳) | 母親が死去。鏡味小鉄の内弟子に |
| 1960年(17歳) | 師匠の一座でアメリカ巡業 |
| 1961年(17歳) | 曲芸師を辞め歌手の道へ |
| 1964年7月 | 「悲しき願い」大ヒット |
| 現在 | 長女・尾藤桃子と孫娘3人に囲まれた生活 |
歌手デビューから現在まで|尾藤イサオさんのキャリアと実家との関係
実家のある台東区御徒町を離れて歌手の道を歩み始めた尾藤さんのキャリアを振り返ってみましょう。
1963〜1964年:ロカビリー歌手として一世を風靡
尾藤さんは1963年に「マック・ザ・ナイフ」のカバー「匕首マッキー」で東芝レコードからデビューしました。
当時のバックバンドはジャッキー吉川とブルー・コメッツ。1963年1月の「日劇ウエスタン・カーニバル」への出演、5月の「プレスリー賞」受賞と、あっという間にスターの仲間入りを果たします。1964年7月には「悲しき願い」(アニマルズ「Don’t Let Me Be Misunderstood」の日本語カバー)が大ヒット。ロカビリー歌手として1960年代の日本音楽シーンに鮮烈な足跡を残しました。
1970年代:「あしたのジョー」主題歌で国民的アニソン歌手に
1970年、人気アニメ「あしたのジョー」の主題歌を担当し、世代を超えた国民的な知名度を獲得します。
「あしたのジョー」の主題歌「あしたのジョー」は、今も多くの人の記憶に刻まれる名曲です。この曲により、ロカビリー世代を知らない若い世代にも「尾藤イサオ」という名前が浸透しました。1976年のテレビドラマ「高原へいらっしゃい」(田宮二郎主演)への出演など、俳優としての活動も積極的に行っていた時期です。
1995年以降:「THE夜もヒッパレ」で再ブレイク
1995年には日本テレビ系のバラエティ番組「THE夜もヒッパレ」にレギュラー出演し、往年のファンだけでなく新世代にもそのエネルギッシュなパフォーマンスで圧倒的な存在感を示しました。
「単なるボーカリストという表現では収まらないエンターテイナー」とのほめ言葉を多くもらったというこの時期が、尾藤さんの第二の全盛期といえるでしょう。
この番組での尾藤さんのパフォーマンスは、「明日のジョー以外の尾藤イサオを知らなかった若い世代」や「たまたまチャンネルを合わせたテレビっ子」までを巻き込むほどのインパクトがあったとされています。
ヒッパレで毎週最新ヒット曲を覚えてパフォーマンスする経験について、尾藤さん自身も「なるべく積極的に若い人たちの音楽に触れようと心掛けています」と語っており、常に新しいものに挑戦し続けるスタンスを大切にしていることがわかります。
2004年からはユニット「BEATWS」とともにライブ活動も展開。熱いボーカリストとしての稀代のソウルフル・シャウトを現在も披露し続けています。
2014年には所属事務所「アトリエ・ダンカン」が自己破産を申請するという出来事もありましたが、そのような困難を経てもなお芸能活動を続けてきたのが尾藤さんです。
尾藤イサオさんの目の病・黄斑変性症|現在も舞台に立ち続ける理由
尾藤さんは現在、黄斑変性症(加齢黄斑変性)という目の病を抱えながら活動を続けています。
この事実が明らかになったのは2018年2月、テレビ朝日系「徹子の部屋」への出演時でした。
黄斑変性症とはどんな病気か
黄斑変性症は、網膜の中心部にある黄斑が変性し、視野の中心が欠けたり歪んだりする病気です。
尾藤さんは「30年から40年前(1970〜1980年代)」に発症したと語っており、長年この病と向き合いながら活動を続けてきました。症状は「まともに見ていると中心がのっぺらぼうになって、視線をずらさなければ対象物を判別できない」状態で、「町内会でも歩いていて人とすれ違っても誰か分からない」という日常の苦労も打ち明けています。
それでも曲芸を続けられる理由
驚くべきことに、尾藤さんはこの状態でも舞台でのジャグリング・曲芸を続けています。
その理由について「10歳からやっていた感覚でできる」と語っており、子供の頃から叩き込まれた体の感覚が視力に頼らずとも技を可能にしているのです。幼少期に鏡味小鉄のもとで徹底的に叩き込まれた曲芸の訓練が、60年以上を経た今も体に刻まれているというのは、改めて驚かされます。
「仕事が仕事さまさま」という姿勢
年齢を重ねても元気な秘訣を問われた尾藤さんは「特別なことはしていません。この仕事さまさまですね」と答えています。
「いつになっても定年や引退がないので、決まっている仕事に向けて頑張るということを積み重ねているから緊張感を保てているんだと思います」という言葉は、芸能一家に生まれ幼少期から舞台に立ち続けてきた尾藤さんだからこそ言える言葉です。また「よく食べてよく寝る」というシンプルな健康法も、不規則な巡業生活で身についた習慣だといいます。
黄斑変性症という目の病を30〜40年以上抱えながら、人前でジャグリングや曲芸を披露し続けるというのは、並外れた精神力と体の感覚があってこそです。10歳から7年間、毎日の練習で体に刻み込んだ曲芸の動きは、視力が低下した今もなお消えていないのでしょう。
「うちに帰るときもあえて裏通りを通って帰る。仕事が仕事なんで、気づかずにあいさつしないと『なんだ芸能人ぶりやがって』と言われちゃう」と語っており、視力の問題を周囲への気遣いで補おうとする真摯な姿勢には、長年の芸能生活で培われた人間性が見えます。
尾藤イサオさんの実家のある御徒町と現在の生活
生まれ育った台東区御徒町は、現在も尾藤さんにとって縁の深い場所です。
御徒町・浅草界隈での現在の生活
尾藤さんは現在も東京都内に在住しており、浅草や御徒町周辺への親しみは変わっていません。
「仕事のない日はだらしなくてね。ずっとゴロゴロしてるんで、家族には『雷さん』って言われてるんですよ」と笑いながら語っており、オフの日はのんびり過ごすのが好みのようです。趣味は特になく「本当に無趣味な人間なんです」と自認していますが、銭湯が好きで友人と一緒に通う習慣が続いています。
ゴルフや仕事以外での過ごし方
40歳頃にゴルフを始めたことがあったそうですが「長続きしなかった」とのこと。
銭湯やサウナを楽しむのが一番のリフレッシュ法で、地方の仕事でも合間を見つけては銭湯に立ち寄るほどの銭湯好きです。この銭湯好きは、実家のある御徒町・浅草という銭湯文化が根付いた地域で育ったことと無関係ではないでしょう。
銭湯仲間にはジョン・カビラさんも名前が挙がっており、芸能界の仲間とも気兼ねなく過ごせる場所として銭湯を大切にしているようです。
好き嫌いがほとんどなく、地方の仕事で出してもらった料理は「失礼がないように全部いただく」というスタンスも、幼少期に食べ物が貴重だった時代の記憶と、巡業生活で鍛えられた習慣が組み合わさったものだといえます。
舞台に立つことへの変わらぬ情熱
2022年のインタビューで「健康で長生きして、最後まで芸人でありたいです」と語った尾藤さん。
「みなさんに『尾藤イサオ頑張ってるな。よし、俺も頑張ろう』と思ってもらえるような存在になれたら最高ですね」という言葉には、幼少期から芸能の世界で生きてきた人間としての誇りがにじんでいます。3歳で父を亡くし、10歳で母を失い、それでも前を向いて芸の道を歩み続けてきた尾藤さんの言葉は、重みが違います。
2022年に78歳でフランス座のジョイントライブに挑んだ際も「80歳近いのに大丈夫かな?と頭によぎることもありましたよ。でも『まだまだ出来る!』と言い聞かせながら、今日まで練習を重ねてきました。こんな年になってもチャレンジできて刺激的な時間を過ごせていることが嬉しいんです」と語っています。
「BACKBEAT 2026 FINAL」や朗読歌劇など、現在も精力的に舞台をこなしている尾藤さん。実家のある御徒町・浅草から始まった芸人の道は、現在も続いているのです。
尾藤イサオさんの結婚歴と前妻について
尾藤さんには複数回の結婚歴があることが知られています。
結婚歴の概要
尾藤さんは複数回の結婚を経験しており、現在の配偶者との生活を送っていると伝えられています。
詳細な前妻の情報については公式に明かされていない部分も多く、現時点での公開情報をもとに整理すると、長女の尾藤桃子さんが歌手として活躍していること、孫娘が3人いることが確認されています。
尾藤さん自身の口から前妻に関する詳細が語られることはほとんどなく、現在の家庭生活に重点を置いているようです。
「3度の結婚歴がある」と伝えられることもありますが、公式な情報として明言されているわけではなく、あくまでも諸説ある状況です。
幼い頃に両親を早くに亡くし、兄弟だけで生活してきた尾藤さんにとって、家庭という温かい場所への憧れは人一倍強かったのではないでしょうか。現在、孫娘3人に「イサちゃん」と呼ばれながら幸せいっぱいの生活を送っているというのは、波乱の人生を送ってきた尾藤さんへの大切なご褒美のようにも見えます。
「感謝離 ずっと一緒に」での夫婦役
2020年公開の映画「感謝離 ずっと一緒に」(小沼雄一監督)では、62年連れ添ったおしどり夫婦を中尾ミエさんと演じました。
中尾ミエさんとは「60年以上のお付き合い」という長い縁があり、尾藤さんは「公開の時には喜寿を迎える僕にとっては、神様からのプレゼントのようです」とコメントしています。長い芸能生活のなかで培われた人間関係が、映画での演技にもリアリティをもたらしました。
孫娘との幸せな現在
現在、孫娘3人に「イサちゃん」と呼ばれて慕われている尾藤さん。
幼い頃に両親を亡くし、兄弟だけで生活した経験を持つ尾藤さんにとって、家族に囲まれた温かい日常は何より大切なものなのではないでしょうか。徹子の部屋で「幸せいっぱいの生活を送っている」と語った言葉には、本音が込められているように感じます。
3歳で父、10歳で母を亡くし、兄弟だけで必死に生きてきた少年が、今は孫娘3人に囲まれて「イサちゃん」と慕われている。その対比を考えると、人生の重みを感じずにはいられません。波乱万丈の歩みを経て辿り着いた現在の穏やかな家族の姿が、尾藤イサオという芸人の人生の集大成のように映ります。
尾藤イサオの実家・家族の生い立ちに関する総まとめ
- 尾藤イサオさんの実家は東京都台東区御徒町(上野・浅草近郊の下町エリア)
- 本名は尾藤功男、1943年11月22日生まれ、2026年04月13日現在82歳
- 父親は3代目松柳亭鶴枝という寄席芸人(百面相・形態模写が得意)
- 母親は三味線奏者の芸人で、父亡き後に家計を支えた
- 3歳で父を亡くし、戦後の混乱期に芸人の母と兄で暮らす生活が始まった
- 10歳で母も亡くなり、大神楽芸人・鏡味小鉄の内弟子に入ることになった
- 内弟子として鏡味鉄太郎の芸名で太神楽の曲芸師として17歳まで活躍した
- 給食費を姉に借りるほど経済的に苦しい幼少期を過ごした
- 1960年にアメリカ巡業でサミー・デイビスJr.に感銘を受け歌手への決意が固まった
- 1963年「匕首マッキー」でデビュー、1964年「悲しき願い」が大ヒット
- 長女は歌手の尾藤桃子で、芸能一家のDNAを受け継いでいる
- 孫娘3人に「イサちゃん」と呼ばれながら幸せな生活を送っている
- 30〜40年前から黄斑変性症を患いながらも舞台に立ち続けている
- 若さの秘訣は「よく食べてよく寝ること」と「仕事が定年のない自分を支えてくれること」
- 現在も浅草・御徒町との縁を大切にし、精力的に芸能活動を続けている

