野際陽子の実家は富山・石川県出身|父親・幸雄の職業と家族の生い立ち

野際陽子の実家は富山・石川県出身|父親・幸雄の職業と家族の生い立ち

※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
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野際陽子さんの実家や出身地について、気になっている方は多いのではないでしょうか。

野際陽子さんは1936年1月13日に富山県富山市で生まれた女優で、NHKアナウンサーを経て女優に転身した異色の経歴の持ち主です。

父親・幸雄さんは京都帝国大学で電気工学を学んだ技術者で、富山の売薬の家に生まれた知性派の人物でした。

この記事では、野際陽子さんの実家の場所・出身地・両親の職業・幼少期のエピソードから、娘・真瀬樹里さんとの親子関係まで、信頼性の高い情報をもとに整理してお届けします。

記事のポイント

①:出身地は富山県富山市・実家は石川県も縁

②:父親・幸雄は京大出の電気工学技術者

③:戦時中は杉並・富山・石川県に疎開体験

④:娘・真瀬樹里と同じマンションで晩年同居

野際陽子の実家と出身地|父親・幸雄の生い立ちと家族背景

  • 野際陽子の実家と出身地・富山と石川の縁
  • 父親・幸雄の職業と人物像
  • 母親の出身地・津幡町と疎開生活
  • 幼少期の戦時体験と家族の絆
  • 立教大学進学と上京までの軌跡

野際陽子の実家と出身地・富山と石川の縁

 

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野際陽子さんの実家について、まずその地理的な背景から整理してみましょう。

出生地は富山県富山市

野際陽子さんは1936年(昭和11年)1月13日、富山県富山市で生まれました。

富山市は北陸の中核都市で、日本海に面した豊かな自然環境が広がる地域です。

父親・幸雄さんが富山の売薬の家の出身であったことから、富山は野際家にとってのルーツにあたります。

ただし、幸雄さんが仕事の関係で東京へ移住したため、野際さんが富山で過ごしたのは3歳ごろまでのことでした。

百度百科や各種資料によると、出生地を「富山県富山市」とする記述が最も多く確認されています。

一方で「石川県金沢市出身」と紹介されることもありますが、これは母親の実家がある石川県津幡町との縁が深いためと考えられます。

以下の表で野際陽子さんの基本プロフィールを整理します。

項目 内容
本名 野際陽子
生年月日 1936年1月13日
2026年04月13日現在の年齢 90歳(2017年6月13日逝去)
出生地 富山県富山市
出身地(縁) 石川県金沢市・石川県津幡町
血液型 A型
身長 163cm
体重 47kg
出身校 立教大学文学部英米文学科(1958年卒)
所属事務所 LAVANCE
逝去 2017年6月13日・肺腺癌・享年81歳

石川県との深いつながり

野際陽子さんが「石川県出身」と紹介されることがある背景には、母親側の実家との関係があります。

母親の実家は石川県津幡町にあり、戦時中の疎開先もこの地域でした。

NHKアナウンサーとして金沢放送局に勤務した経験も、石川県との縁を深めた一因です。

ドラマ出演のために金沢弁を習得すべく猛練習したというエピソードも残っており、石川県は彼女にとって第二の故郷ともいえる場所でした。

雑誌『北國アクタス』2018年1月号(342号)の記事「意外や意外!こんなところに石川・富山の縁者さん(18)物故者編 女優野際陽子さん 父は富山市、母は津幡町出身」でも、父親が富山市出身・母親が津幡町出身という二つの縁が丁寧に紹介されています。

幼少期の東京生活と武蔵野の記憶

3歳で富山から東京へ転居した野際さんが、幼少期を過ごしたのは東京の杉並区でした。

BS-TBSの番組「みんな子どもだった」では、「幼少期を過ごした武蔵野の風景」として、この杉並での思い出が語られています。

杉並区の自宅周辺には昭和飛行機の工場があり、父親・幸雄さんがそこで働いていたため、戦時中は帰宅のたびに家族が無事を喜び合ったといいます。

東京での生活が戦火によって一変し、一家が疎開を余儀なくされるまでの幼少期の記憶が、野際さんのその後の平和への強い思いの原点となっていきました。

父親・幸雄の職業と人物像

野際陽子さんの実家を語る上で欠かせないのが、父親・幸雄さんの存在です。

父親・幸雄の出自と学歴

父親・幸雄さんは明治42年(1909年)に富山の売薬の家に生まれました。

富山の売薬は江戸時代から続く歴史ある産業で、置き薬商として全国を行商していた家業です。

幸雄さんはその家庭で育ちながら、学問の道を志して京都帝国大学に進学しました。

京都帝国大学では電気工学を学び、卒業後は富山県庁の電気局に就職。

黒部川の発電所に関する仕事に携わっており、技術者として北陸の電力インフラを支える役割を担っていました。

以下に父親・幸雄さんのプロフィールをまとめます。

項目 内容
名前 幸雄(こうゆう)
生年 明治42年(1909年)
出身地 富山県富山市
家業 富山の売薬業
学歴 京都帝国大学(電気工学専攻)
職業 富山県庁電気局(黒部発電所関係)→昭和飛行機
人物像 大正リベラリズムの影響を受けた知性派・ダンディーな人物

軍国主義を持ち込まなかった父親

幸雄さんが通っていた京都帝国大学は、1933年の滝川事件(自由主義的な刑法学者・滝川幸辰の休職処分問題)以前の時代に、大正リベラリズムの自由な空気に満ちていました。

幸雄さんはその空気を吸って育った世代で、戦争に対しても冷静な目を持っていました。

開戦時に「えらいことをはじめた」と語ったという幸雄さんは、家の中に軍国主義を持ち込まなかったといいます。

野際さんが「軍国少女にならなかった」のは、まさにこの父親の影響によるものでした。

郵便局長の曾孫にあたる長山誠さんの妹・小泉弘実さんは、幸雄さんについてこう語っています。

「幸雄さんは身長が高くて、スタイルも良くて、最後までダンディーな方でした。陽子さんの顔立ちは、お父さん似かな。野際家には陽子さんも含めて5人のお子さんがいますけど、親がお見合いをさせたりせず、みんな自分で結婚相手を決めたと聞きました」

この言葉から、野際家が子供の自主性を重んじる家風であったことがうかがえます。

結婚相手を子供自身に選ばせるという方針は、当時としては進歩的な考え方でした。

兄弟姉妹と5人きょうだいの家庭

野際陽子さんには兄弟姉妹がおり、幸雄さんと母親との間に5人の子供が生まれています。

野際さんが何番目の子供であるかの詳細は公表されていませんが、複数のきょうだいと育ったことは確かです。

5人きょうだいはいずれも自分で結婚相手を決めたという話から、家族全体が幸雄さんの自由な家風の中で育ったことがわかります。

野際さん自身も後に「わがままに育った」と振り返っていますが、それは甘やかされたというよりも、自分の意志を尊重してもらえる環境で育ったことを指しているようです。

母親の出身地・津幡町と疎開生活

野際陽子さんの母親側の実家は石川県津幡町にあり、戦時中の疎開先として一家の命をつないだ場所でもあります。

母親の出身と石川県津幡町

野際さんの母親の詳しい名前は公表されていませんが、石川県津幡町の出身者であることが資料から確認できます。

津幡町は石川県の中央部に位置し、金沢市に隣接する町です。

かほく市・河北郡の一部であり、古くから北陸の交通の要衝として栄えてきた地域でもあります。

母親の実家が津幡町にあったことで、戦時中に空襲が激しくなった際、野際一家は疎開先として津幡町を選ぶことになりました。

項目 内容
母親の出身地 石川県津幡町
疎開先 石川県津幡町(母親の実家)
疎開の時期 昭和19年(1944年)12月〜終戦まで
疎開前の滞在地 富山県婦中郵便局(祖母の兄が局長)

疎開中の生活と雪国の記憶

昭和19年12月、東京への大規模空襲を予期した幸雄さんは、家族を津幡町に疎開させる決断をしました。

7日の夜、野際一家は「ぎゅうぎゅう詰めの夜行列車」に乗り、逃げるように東京を後にしたといいます。

津幡の駅に着いたとき、「見渡す限り一面が雪で覆われている」光景が広がっていました。

夏の富山・婦中郵便局での穏やかな日々とは一転して、厳しい雪国での疎開生活が始まったのです。

石川県での疎開生活は終戦まで続き、昭和20年8月2日未明には、疎開先の石川県から東の方角に富山大空襲の炎が見えたといいます。

市街地の99.5%を焼き尽くし、2700人以上の犠牲者を出した富山大空襲の赤い空を、幼い野際さんは窓から見つめていました。

津幡と金沢が「出身地」となった背景

野際陽子さんが「石川県金沢市出身」と紹介されることがある理由は、幼少期の疎開生活と、その後のNHK金沢放送局での勤務が重なっているためと考えられます。

立教大学卒業後にNHKに入局した野際さんは、NHKアナウンサーとして金沢放送局に配属される時期がありました。

金沢での勤務を通じて石川県への愛着が深まり、ドラマ出演に合わせて金沢弁を猛練習するほど石川県の文化に親しんでいきました。

出生地は富山県富山市、母親の実家は石川県津幡町、勤務地は石川県金沢市という複合的な縁が、「石川県出身」という紹介につながっているようです。

幼少期の戦時体験と家族の絆

野際陽子さんが幼少期に経験した戦争は、その後の価値観と行動の大きな原動力となりました。

富山・婦中郵便局での夏の記憶

昭和19年夏、8歳の陽子さんは祖母の兄が局長を務める富山の婦中郵便局で過ごしました。

婦中町(現・富山市)は神通川下流の西岸一帯を占める米作地帯で、縁側には簾が掛かり、石垣にはマツバボタンがあざやかに咲き誇っていたといいます。

井戸には大きな黒部スイカが冷やしてあり、家と郵便局がつながっていたため、幼い陽子さんは「家の中に郵便局がある!」と驚いたそうです。

局内には子どもでも自由に出入りでき、ハンマーのような槌型スタンプで切手に消印を押させてもらうことが楽しみでした。

当時の郵便局長の曾孫にあたる現局長・長山誠さんは「切手に消印を押すとき、ハンマーのような槌型のスタンプを使ってたんですよ。子どもでもたくさん押せるから、それが楽しかったんでしょう」と語っています。

野際さんは自著『脱いでみようか』(扶桑社、1996年)に、この夏の記憶をこう書き残しています。

「もしかしたら、巨大な戦争が私達をじわじわと締めつけてくるのを小さな心が息苦しい思いで感じていたから、あの夏の風景をこんなに鮮明に覚えているのかも知れない」

東京空襲と父・幸雄の帰宅を待つ日々

昭和19年11月24日、東京の空に100機を超えるB29爆撃機が飛来し、本格的な空襲が始まりました。

野際家の杉並区の自宅はそれほど離れていない中島飛行機武蔵製作所が最初の標的となり、ドーンという音とともに家がガタガタと揺れたといいます。

父親・幸雄さんは当時「昭和飛行機」で働いており、帰宅するたびに家族が無事を喜び合う日々が続きました。

飛行機が真上を過ぎればもう大丈夫と教えられた幼い陽子さんが空を見上げると、B29爆撃機が巨大なお腹を見せながら悠々と飛んでいったといいます。

以下に野際さんが体験した戦時下の主な出来事を年表でまとめます。

時期 出来事 年齢
1936年1月 富山県富山市で誕生 0歳
1939年ごろ 父の転勤で東京・杉並区へ転居 約3歳
1944年夏 富山・婦中郵便局で過ごす 8歳
1944年11月 東京への本格的な空襲開始 8歳
1944年12月 石川県津幡町へ疎開 8歳
1945年8月2日 富山大空襲(疎開先から目撃) 9歳
1945年8月15日 終戦(9歳で体験) 9歳

終戦と戦後の使命感

終戦のとき、野際陽子さんは9歳でした。

ラジオから流れる玉音放送の意味はよく分からなかったが、日本が戦争に敗けたと聞かされ、とっさに「校長先生が嘘をついた」と思ったといいます。

学校ではずっと「神国日本は必ず勝つ」と教えられてきたからです。

その後、野際さんは雑誌『サンデー毎日』1983年10月30日号でこう語っています。

「終戦の時、小学生だった世代というのが、また一つすごく意味のある世代じゃないか、大げさにいえば、私たちが踏ん張らなくなったら、どっかガタガタと悪い方へ行っちゃうんじゃないかという使命感のある世代だと思うんです」

この言葉が示すように、幼少期の戦時体験が野際さんの人生観の根底にありました。

東日本大震災後には原発反対を表明し、2015年には安保関連法案に反対の声を上げたことも、この使命感の延長線上にあったといえます。

立教大学進学と上京までの軌跡

戦後の野際陽子さんがどのように学業を積み、女優への道を歩み出したのかを追っていきます。

学歴と立教大学への進学

野際陽子さんは戦後、幼稚園から高校までカトリック系の女子校で教育を受けました。

娘の真瀬樹里さんによると、「アメリカンスクールや芸能活動を許可している学校に転校したい」という希望を持っていたほど、外の世界への好奇心が旺盛だったようです。

1954年ごろ、立教大学文学部英米文学科に進学し、英語劇サークルESS(English Speaking Society)での活動に取り組みます。

このESSでの活動での演技の才能がNHKに認められ、1958年の卒業後にNHKに入局するという異色のキャリアにつながっていきます。

学校・機関 時期 備考
カトリック系女子校(幼稚園〜高校) 1940年代〜1950年代初頭 詳細校名は非公表
立教大学文学部英米文学科 1954年〜1958年 ESS(英語劇サークル)で活動
NHK入局 1958年 天気予報キャスター・金沢放送局

大学時代のエピソードと女優への転身

大学時代、野際さんはESS(English Speaking Society)での英語劇活動に情熱を注ぎました。

その才能がNHKのアナウンサー試験でも生かされ、1958年に入局。天気予報のキャスターを務めました。

BS-TBSの番組「みんな子どもだった」では、大学時代について「思いもかけなかったアナウンサーとしての社会人デビュー」と振り返っています。

さらに30歳で念願のパリ留学を果たし、そこで得た経験が「本気で女を演じてみたいと思った」きっかけとなったといいます。

NHKを退局後、野際さんは女優の道を歩み始めます。

1963年にテレビドラマ『悲の器』で女優としてデビューし、その後「キイハンター」「ずっとあなたが好きだった」「トリック」「ドラゴン桜」など多くの代表作を残していきました。

大学時代の恋愛と30代の覚悟

「みんな子どもだった」では「大学生時代の淡い恋の記憶」にも触れており、青春時代の恋愛を経て、「離婚という経験が本気で女を演じてみたいと思ったきっかけとなった」と語っています。

パリ留学を機に女優としての自覚が芽生え、その後の演技への向き合い方が大きく変わったといいます。

立教大学で培った語学力と知性が、後の知的な女優イメージの土台となったことは間違いありません。

野際陽子の実家の家族関係|娘・真瀬樹里との暮らしと親子の絆

  • 千葉真一との結婚と娘・真瀬樹里の誕生
  • 過保護・過干渉な母親像と教育方針
  • 離婚後の生活と同じマンションでの同居
  • 晩年の肺がんとの闘病と家族の時間
  • 野際陽子の実家|富山・石川の故郷への思い

千葉真一との結婚と娘・真瀬樹里の誕生

 

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野際陽子さんの家族関係を語る上で、俳優・千葉真一さんとの結婚は欠かせないエピソードです。

千葉真一との出会いと結婚

千葉真一さんと野際陽子さんは1972年に結婚しました。

野際さんが36歳、千葉さんが32歳のときのことです。

2人は撮影現場で出会い、ともに第一線で活躍する俳優同士として結ばれました。

以下に2人の関係を整理した表を示します。

項目 内容
結婚年 1972年
離婚年 1994年(野際さん58歳)
婚姻期間 約22年間
子供 長女・真瀬樹里(女優)
野際さんの出産年齢 38歳と11ヵ月(当時の芸能界初産最高齢)

娘・真瀬樹里の誕生と子育て

娘・真瀬樹里さんは千葉真一さんと野際陽子さんの間に生まれた女優です。

野際さんが娘を産んだのは38歳と11ヵ月のとき。

当時は「芸能界初産最高齢」と言われたほどで、そのこともあって子供への過保護・過干渉につながったと真瀬さんは語っています。

野際さんの口癖は「樹里ちゃんはママの宝物」だったといいます。

愛情の深さゆえに過保護になってしまう母親像は、芸能界での強いイメージとは一味異なる、野際陽子さんの素顔を物語っています。

真瀬樹里さんが語る母のエピソード

真瀬樹里さんは婦人公論のインタビューでこう語っています。

「過剰なまでに心配性な母は、私が高校生になっても、決して一人で留守番をさせませんでした。両親とも出かける時は、お手伝いさんや自分のマネージャーにお願いして」

また、成績の悪さを厳しく叱られたエピソードも残っています。

「教科書を1回読めば覚えてしまう母に、試験の結果を怒られて…眠くなってこっくりこっくりすると、手が飛んでくることもありました」と真瀬さんは語っています。

野際さんはものすごい記憶力の持ち主で、1回教科書を読むと全部覚えてしまったため、娘ができないのが理解できなかったのだろうと真瀬さんは振り返っています。

母と娘の関係性と女優・真瀬樹里の誕生

真瀬樹里さんは千葉真一さんと野際陽子さんを両親に持つ、まさに芸能一家の血を受け継いだ女優です。

現在も女優として活動しており、2022年12月に「徹子の部屋」へ出演した際には、野際陽子さんそっくりな美しさが話題を呼びました。

「目元がお母様に似ておられますね」「お綺麗です」という視聴者の声が相次ぎ、母・野際陽子さんの面影を受け継いだ娘の姿が改めて注目されました。

真瀬さんは幼稚園から高校まで母が通ったのと同じカトリック系女子校で育ち、母の影響を強く受けながら女優としてのキャリアを歩んでいます。

野際さんが芸能界最高齢に近い年齢で産んだひとり娘への深い愛情は、過保護という形で表れながらも、真瀬さんの人生の土台を作り上げていきました。

ここ、親子の絆の深さがしみじみ伝わってきますよね。

過保護・過干渉な母親像と教育方針

野際陽子さんの母親としての顔は、女優としての強いイメージとは対照的に、非常に過保護な一面を持っていました。

カトリック系女子校への通学と転校禁止

真瀬樹里さんは幼稚園から高校までカトリック系の女子校に通いました。

野際さんは自分が通ったカトリック系の学校教育を信頼しており、娘にも同じ環境を与えようとしていたようです。

「アメリカンスクールや芸能活動を許可している学校に転校したい」という真瀬さんの希望に対して、野際さんは「悪い友達ができるかもしれない」と許してくれなかったといいます。

勉強の監視と完璧主義

野際さんの教育方針は徹底したものでした。

ピアノのお稽古の際はずっと横に張りついており、宿題中も隣に座って離れませんでした。

試験の点数が悪かったときには「昨日教科書読んだところじゃない。なんで間違えるの!?」と怒り、すぐ復習するように命令したといいます。

母は私が小学生の時、一緒に勉強するのが楽しくて仕方ないと言っていたそうですと真瀬さんは語っています。

これには野際さん自身の幼少期の背景がありました。

5歳から9歳まで戦時下で過ごし、勉強どころではなかった野際さんにとって、子供と一緒に学ぶことは大きな喜びだったのです。

土下座と明け方まで謝り合った夜

真瀬さんが思春期になると反抗心も芽生えましたが、母に直接ぶつける勇気はなかったといいます。

ある日、怒られてわんわん泣きながら、聞こえないような小さな声で「ママのバカ」と呟いたのが聞こえてしまい、2時間後に「母親に向かってなんて言ったのッ!!」と怒鳴られ、土下座させられたそうです。

しかし真瀬さんは「そういう母も含めて大好き」と語っており、母への愛情は揺るぎないものでした。

30年もの間甘えることを許されなかったと振り返りつつも、母の七回忌(2023年)を迎えても「恋しさが薄れたかと言われたら、まったくそんなことはありません」と語っています。

離婚後の生活と同じマンションでの同居

1994年に千葉真一さんと離婚した後、野際陽子さんと娘・真瀬樹里さんはユニークな生活スタイルを続けました。

離婚後の生活環境

野際陽子さんは同じマンション内に2部屋を持っており、1室は元夫・千葉真一さんが使っていました。

真瀬さんが19歳のとき、千葉さんがアメリカに行くことになり、千葉さんから「お前が使ったら」と提案されて、真瀬さんがその部屋を使うようになりました。

それからは母と娘がそれぞれ一人暮らしという形を取りながら、母親の言いつけで食事は一緒にとる生活が続きました。

「ずっと同居している感覚でした」と真瀬さんが語るほど、母娘の生活は密接でした。

時期 出来事
1994年 千葉真一さんと野際陽子さんが離婚
1994年ごろ 真瀬さんが19歳、千葉さんが渡米・部屋を真瀬さんへ
1994年〜2017年 同じマンション内で母娘が別々の部屋で暮らしながら食事は一緒
2017年6月13日 野際陽子さん逝去・真瀬さんと最後まで同居

亡くなる直前まで一緒に暮らした母娘

真瀬さんは野際さんが亡くなるまで同居を続けました。

「亡くなる直前まで一緒に暮らしていたので、よけいに寂しさを感じるのかもしれないですね」と語っており、母の死後も深い喪失感を抱いていることが伝わります。

2022年12月には「徹子の部屋」に出演し、両親のことを語った真瀬さんの美しさが話題になりました。

「お綺麗です」「目元がお母様に似ておられますね」という声が寄せられ、野際陽子さんの面影を色濃く受け継いだ娘の姿が多くの人の胸を打ちました。

離婚後も続いた母娘の絆と真瀬さんの女優活動

千葉真一さんと野際陽子さんが1994年に離婚した後、真瀬樹里さんは母・野際さんと同じマンション内に住み続けました。

表向きはそれぞれ一人暮らしながら、食事を一緒にとる生活が2017年の野際さんの死去まで続きました。

真瀬さんは現在も女優として活動しており、2022年には父・千葉真一さんが亡くなったことも重なり、両親のことを改めて語る機会が増えています。

インスタグラムでの告知では「両親のこと、犬のこと、殺陣のこと、色々お話しさせて頂きました」と司会の黒柳徹子さんとの2ショットを披露し、ファンの間で大きな反響を呼びました。

また昨年6月に野際さんの七回忌を行ったことを明かした真瀬さんは、「母がいない生活に慣れはしましたが、恋しさが薄れたかと言われたら、まったくそんなことはありません」と語っています。

亡くなる直前まで一緒に暮らしていた母への思いは、時が経っても色あせることなく続いているのです。

晩年の肺がんとの闘病と家族の時間

野際陽子さんは2014年に肺がんを宣告されながらも、最後まで仕事を続けました。

2014年、肺がん発覚と沈黙の闘病

2014年、野際陽子さんは映画『花嫁暖簾2』の撮影中に肺がんであることを発見しました。

しかし彼女は終始口を閉ざし、仕事を続けながら静かに病魔と闘い続けました。

2017年には連続ドラマ『安寧の郷』の撮影中に病状が悪化し緊急入院となりましたが、それでも病魔に抗い続けました。

第55話の撮影でジョギングシーンを演じた際には、すでに呼吸器を装着する必要があったにもかかわらず、脚本家の倉本聰さんが設定変更を提案したのを丁重に断ったといいます。

娘・真瀬樹里とともにあった最期

闘病中も真瀬さんとの同居生活は続き、母娘は最後まで寄り添い合いました。

晩年も女優として仕事を全うしようとした野際さんの姿は、娘の真瀬さんに強い印象を残しています。

2017年6月13日、野際陽子さんは肺腺癌のために逝去しました。享年81歳でした。

遺作となった映画『何日君再来』は同年6月24日に初上映され、最後まで女優としての仕事を全うした一生が締めくくられました。

倉本聰との関係と「安寧の郷」への情熱

野際陽子さんが最後まで出演を続けたドラマ「安寧の郷」の脚本を手がけたのは、倉本聰さんでした。

倉本さんはBS-TBSの番組「みんな子どもだった」でも野際さんを迎え、幼少期のエピソードを引き出した人物です。

「安寧の郷」第55話の撮影でジョギングシーンを演じた際には、すでに呼吸器を装着する必要があったにもかかわらず、倉本さんが設定変更を提案したのを「丁重に断った」と伝えられています。

この逸話は、野際さんがいかに女優という仕事に誇りと情熱を持ち続けていたかを象徴するエピソードとして、多くの人の心に刻まれています。

2014年に『花嫁暖簾2』の撮影中に肺がんを発見してから、逝去するまでの約3年間、野際さんは病状を公表せずに仕事を続けました。

肺腺癌という診断を受けながら口を閉ざし、スタッフや共演者にも知らせずに演技を続けた姿は、プロフェッショナルとして最後まで在り続けた野際陽子さんの生き様そのものでした。

富山・石川の実家が育んだ芯の強さと、戦時体験から培われた使命感——それが、最期の瞬間まで女優であり続けることを可能にしたのかもしれません。

野際陽子の実家|富山・石川の故郷への思い

野際陽子さんの実家に根差した故郷への思いは、晩年まで変わることなく続きました。

婦中郵便局への再訪と故郷との再会

終戦から約40年後、野際さんはテレビ朝日の旅番組『誘われて二人旅』で、幼少期の夏の記憶が刻まれた富山・婦中郵便局を再訪しました。

番組のコンセプトは出演者の思い出の土地や会いたい人が住んでいる場所を訪れるというもので、野際さん自らがリクエストして実現したと考えられています。

そのときはハトコが局長をしており、収録後に皆でぜんざいを食べ、楽しい時を過ごしました。

局舎が立て替えられて立派になっているのはちょっと寂しかったが、「やはり大切な故郷だった」と語っています。

戦争の記憶と平和への思い

晩年の野際さんは、戦争が忘れられていくことに強い危機感を抱いていました。

野際さんは8月15日の終戦を9歳で迎えた世代として、自分たちの世代の使命を強く意識し続けました。

東日本大震災後には、原発について「無知」だったと語ったうえで原発反対のスタンスを明確にし、2013年には「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」に賛同しました。

2015年には安保関連法案にも反対の声を上げており、芸能人の政治的発言が歓迎されないこの国で、自分の意見をはっきりと表明し続けた女優でした。

石川・富山の縁者として記憶される野際陽子

雑誌『北國アクタス』の記事タイトルにある通り、野際陽子さんは石川・富山の縁者として地域の人々に親しまれています。

父親・幸雄さんの出身地である富山市、母親の実家がある石川県津幡町、NHK時代に勤務した金沢——それらすべてが野際陽子さんの「実家」にまつわる場所です。

金沢弁をドラマ出演のために猛練習したエピソードや、郷土への愛着から旅番組で故郷を訪れた姿は、故郷を大切にする野際陽子さんの人柄を象徴しています。

野際陽子の女優としての歩みと代表作

故郷・富山と石川の地で幼少期を過ごし、東京・立教大学で学んだ野際陽子さんは、1958年にNHK入局後に女優への道を切り開いていきました。

1963年に女優デビューを果たした後、1968年の「キイハンター」で人気を博し、一躍お茶の間の顔となりました。

以下に野際陽子さんの主な代表作をまとめます。

作品名 放送年 役柄・内容
キイハンター 1968年〜1973年 TBS系・アクションドラマで主演
ずっとあなたが好きだった 1992年 TBS系・社会現象にもなったドラマ
ガラスの仮面 1997年〜1998年 月影千草役・「野際陽子でなければ」と評価
ドラゴン桜 2005年 TBS系・龍野百合子役・幅広い世代に認知
トリック 2000年〜2014年 テレビ朝日系・山田里見の母役で長期出演
安寧の郷 2016年〜2017年 倉本聰脚本・最後の出演ドラマ

「着物が似合う女優」として知られ、品格ある役柄から強い個性の役柄まで幅広くこなした野際陽子さんの演技力は、富山・石川の地で培われた芯の強さと知性から生まれたものといえるでしょう。

故郷の実家が産み出したその才能は、日本のテレビドラマ史に深く刻まれています。

野際陽子の実家と家族の生涯|富山・石川と歩んだ人生の総まとめ

  • 野際陽子さんは1936年1月13日、富山県富山市で生まれた
  • 父親・幸雄さんは富山の売薬の家の出身で京都帝国大学電気工学科を卒業した技術者
  • 幸雄さんは富山県庁電気局で黒部の発電所関係の仕事に従事した
  • 母親の実家は石川県津幡町にあり、戦時中の疎開先となった
  • 野際家は野際陽子さんを含め5人きょうだいの家庭で育った
  • 幸雄さんは家に軍国主義を持ち込まず、子供たちに自由な結婚観を与えた
  • 3歳まで富山に住んだ後、父の仕事で東京・杉並区に転居した
  • 昭和19年(1944年)夏に富山・婦中郵便局で過ごし、この記憶を自著に書き残した
  • 昭和19年12月に石川県津幡町へ疎開し、終戦を9歳で体験した
  • 立教大学文学部英米文学科を1958年に卒業し、ESSでの演技の才能がNHK入局につながった
  • 千葉真一さんと1972年に結婚し、長女・真瀬樹里さんを38歳と11ヵ月で出産した
  • 娘・真瀬樹里さんに対して過保護・過干渉な一面があり「樹里ちゃんはママの宝物」が口癖だった
  • 1994年の離婚後も同じマンション内に住み、亡くなるまで母娘が食事を一緒にとり続けた
  • 2014年に肺がんが発覚しても口を閉ざし、2017年6月13日まで女優として働き続けた
  • 故郷・富山の婦中郵便局を晩年にテレビで再訪し、やはり大切な故郷だったと語った

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