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三國清三さんといえば、日本人料理人として初めてフランスの最高勲章「レジオン・ドヌール」を受章したフレンチの巨匠として広く知られる存在です。
しかし、そのキャリアの出発点となった実家のことはあまり知られていないかもしれません。三國さんは北海道の日本海に面した小さな漁師町・増毛町で生まれ育ち、父親と一緒に嵐の後の海岸で打ち上げられた魚を拾う暮らしをしていたといいます。
その実家での食体験が、のちに世界中の美食家を魅了する料理哲学の原点となっています。この記事では、三國清三さんの実家・増毛町での生い立ちから現在の活躍までを詳しく追っていきます。
記事のポイント
①:三國清三の実家は北海道・増毛町の漁師町
②:父親と海岸で魚を拾った体験が料理の原点に
③:15歳で実家を離れ料理人の道へ踏み出した
④:レジオン・ドヌールを受章した唯一の日本人料理人
三國清三の実家がある増毛町と北海道での生い立ち
- 三國清三の実家・北海道増毛町の場所と概要
- 三國清三の父親・母親と家族構成
- 実家の食体験が育てた三國清三の味覚
- 三國清三が実家を離れ料理人を志した経緯
- 札幌グランドホテルと帝国ホテルでの修業
- 駐スイス日本大使館での料理長就任と活躍
三國清三の実家・北海道増毛町の場所と概要
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三國清三さんの実家があるのは、北海道増毛郡増毛町(ましけちょう)です。
増毛という地名はアイヌ語に由来しており、北海道北西部・留萌振興局管内の日本海沿岸に位置する小さな町です。まず三國さんの基本プロフィールを表で確認しておきましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 三國清三(みくに きよみ) |
| 生年月日 | 1954年(昭和29年)生まれ |
| 2026年04月03日現在の年齢 | 71歳 |
| 出身地 | 北海道増毛郡増毛町 |
| 職業 | フランス料理シェフ・実業家 |
| 現在の店舗 | 「三國」(東京・四谷)オーナーシェフ |
| 主な受賞歴 | レジオン・ドヌール(2015年)、フランソワ・ラブレー大学名誉博士号(2013年) |
増毛町の地理と日本海の恵み
増毛町は、北海道のほぼ中央西側に位置し、日本海に向かって開けた地形の中にある町です。
南北に延びる海岸線と後背の山々が特徴的で、冬は日本海から吹き付ける強風と大雪に見舞われる厳しい環境です。
一方で海産物は非常に豊かで、甘エビ・タコ・ウニ・ホタテ・ニシンなどの水産資源が今も地域を支えています。三國さんが子供時代を過ごした1950〜60年代の増毛町は、海の恵みを糧に人々が力強く生きる漁師町でした。
ニシン漁で栄えた歴史と時代の移り変わり
増毛町は明治時代から昭和初期にかけて、ニシン漁の一大拠点として大きく栄えました。
最盛期には全国各地から漁師が集まり、「鰊御殿(にしんごてん)」と呼ばれる豪壮な建物が立ち並ぶほどの賑わいでした。現在も旧商家・丸一本間家などの歴史的建造物が残り、当時の繁栄を伝えています。
ただし、昭和30年代以降はニシンの来遊量が激減し、漁業を主産業とした増毛の経済は大きく縮小していきました。三國清三さんが生まれた1954年はその転換期にあたり、かつての繁栄の名残はあるものの、庶民の暮らしは決して豊かとは言えない時代でした。
NHK連続テレビ小説「すずらん」のロケ地
増毛町は2000年に放送されたNHKの連続テレビ小説「すずらん」のロケ地としても知られています。
明治末期から昭和初期の北海道の風景を今に伝える趣のある建物が残り、観光地としても親しまれている場所です。三國さんが育った時代の増毛は、この「すずらん」が描くような素朴で力強い生活が広がっていたと想像できます。
日本海の荒々しい自然と、豊かな海の幸、そして質素だが温かい人々の暮らし——三國さんの料理哲学の土台は、まさにこの増毛町の風土の中で育まれたと言えるでしょう。
三國清三の父親・母親と家族構成
三國清三さんの両親については、詳細な情報は公表されていません。
ただ、三國さんが様々なインタビューで語ってきたエピソードから、家庭の様子をある程度うかがい知ることができます。
| 続柄 | 情報 | 備考 |
|---|---|---|
| 父親 | 名前非公表 | 増毛町在住、漁師町の暮らし |
| 母親 | 名前非公表 | 詳細非公表 |
| 三國清三さん本人 | 1954年生まれ | 増毛町出身のフランス料理シェフ |
| 兄弟姉妹 | 詳細非公表 | — |
父親との海辺のエピソード
三國さんの父親については、氏名や職業は公表されていませんが、「親父とよく海岸に打ち上げられた魚を拾いに行った」という息子の語りから、父子の絆が深かったことが伝わってきます。
日本海で嵐(時化)が起きた翌朝、海岸には様々な魚介類が打ち上げられます。三國さんの父親はそれを息子と一緒に拾いに行き、食料にしていたといいます。
「食べるためにね」という三國さんの言葉には、当時の生活の質素さと、それでも自然の恵みに感謝しながら生きていた家族の姿が凝縮されています。経済的に豊かではない環境の中で、父親が息子に伝えたのは「自然の食材と向き合う目」だったのかもしれません。
家庭環境と食への姿勢
三國さんが育った家庭は、増毛の一般的な庶民の家庭と思われます。
ニシン漁の衰退後も漁師町としての生活文化は残っており、旬の魚介を手軽に食べられる環境がありました。高級食材やフランス料理とは無縁ですが、新鮮な海産物を素直に味わう食文化が日常にありました。
のちに三國さんは「増毛時代の食体験こそが自分の料理の原点」と繰り返し語っており、実家での暮らしが料理人としての感性を根本から育てたことがわかります。
母親について
母親についての具体的な情報は、三國さん自身もほとんど語っておらず、詳細は不明です。
ただ、増毛町の漁師町という環境で家族を支えてきた母親の存在は、三國さんの人格形成に少なからず影響を与えていたことでしょう。
三國さんは現在も地域の食育活動に積極的に取り組んでいますが、その情熱の底には、幼少期に家族とともに食卓を囲んだ記憶があるのかもしれませんね。
実家の食体験が育てた三國清三の味覚
三國清三さんの料理哲学を語る上で、実家での食体験は切り離せないテーマです。
幼少期の増毛での暮らしが、のちにフランス料理界を席巻する天才シェフの「舌」を育てました。その核心にあるのが「ほや」との出会いです。
「ほや」が教えてくれた五味の世界
三國さんが繰り返し語るエピソードの中に、「ほやには五味——甘・酸・塩・苦・旨のすべての味がある。あれが僕の味覚を育てた」という言葉があります。
「ほや(海鞘)」は、北海道・東北の日本海や太平洋沿岸に生息する海産物で、独特の風味を持つ食材です。甘み・酸味・塩気・苦み・旨味が複雑に絡み合ったその味は、まさに「五味の教科書」とも言えます。
父親と海岸に打ち上げられた魚を拾いに行くと、必ずほやがあったといいます。それを子供の頃から食べることで、三國さんは料理の基本である「五味のバランス」を体で覚えていったのです。これは料理学校でも教えてもらえない、自然の中での実地教育でした。
時化の翌朝の記憶
増毛町では冬から春にかけて、日本海を荒れ狂う嵐「時化(しけ)」が頻発します。
三國さんと父親が海岸へ出かけるのは、ちょうどその時化が過ぎた翌朝でした。波に運ばれてきた魚やほやが浜辺に打ち上げられているのを拾い集め、その日の食卓に並べたといいます。
「食べるためにね」という三國さんの言葉が示す通り、それは生活の必要から生まれた行為でしたが、その経験が食材を「生きたまま感じる力」を育てたのでしょう。今でも三國さんが食材の産地を直接訪ね、生産者と話しながら食材を選ぶスタイルにつながっています。
実家の食体験とジャポニゼの哲学
三國さんが確立した料理のスタイル「ジャポニゼ(Japonisée)」は、フランス料理の技法と日本の食材・感性を融合させたものです。
その発想の根底には、増毛町での幼少期の記憶があります。
①新鮮な地元食材をそのまま活かす発想——海岸で拾ったほやをそのまま食べた原体験から。②自然の恵みへの敬意——嵐が運んでくれた食材に感謝する姿勢から。③五味を体感で知っていること——学術ではなく身体で覚えた味のバランスから。
これらはすべて、実家・増毛町での暮らしの中で自然に身につけたものです。三國さん自身が「子供の食育」に20年以上力を入れてきたのも、自分の原体験の価値を知っているからこそなのかもしれません。
三國清三が実家を離れ料理人を志した経緯
三國清三さんが料理人の道を志したのは15歳のときです。
まだ中学校を卒業したばかりの年齢で、北海道増毛町の実家を離れるという大きな決断をしたのです。ここ、なかなかインパクトがありますよね。
15歳という決断の重さ
15歳での修業入りというのは、三國さんが生きた昭和30年代の文脈では珍しいことではありませんでした。
高度経済成長が始まりかけた時代、地方の若者が都市部や大きな施設に修業に出るのは一つの選択肢でした。しかし15歳で「料理人になる」と決断できる明確な意志と行動力は、三國さんの並外れた性格を示しています。
「米屋の頃から、休みを取ったことがない。それを苦労とは思わない。楽しいから」という三國さんの言葉からは、若い頃から仕事を苦痛ではなく情熱の対象として捉えていたことがわかります。
増毛町を離れる理由
三國さんが増毛の実家を離れた背景には、漁師町という限られた環境の中での将来への展望があったと考えられます。
ニシン漁が衰退し、経済的に先細りが見えていた増毛町に留まるより、外の世界で技術を身につけたいという思いが強かったのでしょう。
「子供の頃から機転が利いた」と自ら語る三國さんは、状況を冷静に判断し、行動する能力を早くから備えていたようです。幼少期の父親との海岸での体験が示すように、三國さんは常に「今できることをやり抜く」姿勢を持っていたのでしょう。
料理人を志した原動力
三國さんが特に「料理」を選んだのは、幼少期から食と深く関わってきた生活環境が影響していると考えられます。
父親と一緒に海辺で食材を探し、ほやの五味を体で覚えた少年は、食の世界に自分の可能性を見出したのでしょう。
その後の三國さんのキャリアを見ると、どんな困難な状況でも「まず行動する、機転を利かせる」という姿勢が一貫しています。これは増毛の実家での暮らしから培われた、逞しい精神力の表れと言えるでしょう。
札幌グランドホテルと帝国ホテルでの修業
実家・増毛町を離れた三國清三さんは、まず北海道の中心都市・札幌での修業からキャリアをスタートさせます。
地方の小さな漁師町の少年が、日本を代表するホテルへと駆け上がる過程には、並外れた努力と才能がありました。
札幌グランドホテルでの第一歩
三國さんが最初に修業した場所は、札幌グランドホテルです。
札幌グランドホテルは1934年に開業した北海道初の本格的な洋式ホテルで、長年にわたって道内の食文化をリードしてきた施設です。
増毛出身の少年にとって、札幌という大都市で本格的なホテル料理を学ぶことは、大きな転換点でした。フランス料理の基礎技術や、ホテルの厨房での仕事の流れを体で覚えていったのです。
三國さんは若い頃から「人がやりたがらない仕事が基本」という姿勢を持ち、地味な下仕事も率先してこなしながら技術を習得していきました。
帝国ホテル東京という大きな舞台
札幌グランドホテルでの修業を経て、三國さんはさらに大きな舞台へと進みます。それが東京・日比谷に構える帝国ホテルです。
帝国ホテルは日本のホテル界の頂点に位置する施設であり、そこで料理の修業を積んだことは、三國さんのキャリアにとって決定的な意味を持ちました。
フランス料理の本格的な技術体系を学び、プロとしての料理人の作法・マインドを徹底的に叩き込まれた場所です。
二つの修業で培った「土台」
札幌グランドホテルと帝国ホテルでの修業を通して、三國さんはフランス料理の基礎を日本国内でしっかりと身につけました。
この「土台」があったからこそ、のちのスイス大使館料理長就任や、フランスの三つ星レストランでの修業が実を結んだのです。
どんな高みに登った料理人も、基礎は積み重ねた修業の上にある——三國さんの経歴はそのことを端的に示しています。実家を離れてから10年余り、三國さんは着実に力をつけていきました。
駐スイス日本大使館での料理長就任と活躍
帝国ホテルでの修業を経た三國清三さんに、人生を変える転機が訪れます。
1974年、まだ20歳の三國さんが駐スイス日本大使館の料理長に就任したのです。これは若き日の三國さんが、いかに非凡な才能と行動力を持っていたかを示す出来事でした。
フルコースを作ったことがない料理長
三國さんがスイス大使館の料理長に就任した際の話は、いまも語り草になっています。
当時の三國さんはフランス料理のフルコースを「一回も作ったことがなかった」というのです。それでも「やるしかない(笑)」と機転を利かせ、見事に役割をこなしました。
「できません」とは言わない——これが若き三國さんの信条であり、困難な状況でも背伸びして挑戦する姿勢が、後の成長の原動力となりました。
アメリカ大使の晩餐会での機転
スイス大使館での印象的なエピソードとして、アメリカ大使が出席する晩餐会の準備があります。
三國さんは通訳に頼んでアメリカ大使が使うレストランを調べ出し、「日本大使館の料理長が3日間研修したい」と申し入れました。
そこで前菜からメインまで、アメリカ大使の好みから食材の仕入れ先まで全部教えてもらって丸暗記。晩餐会は大成功を収め、アメリカ大使は「どうして君のところの料理長は、僕が好きな料理を知ってるんだ?」と不思議がったというエピソードが残っています。
ジラルデとの運命的な出会い
スイス赴任中の三國さんが「スイス銀行の金庫を破るより予約が難しい」と言われたレストランに出会います。
ローザンヌ郊外にあった「ジラルデ(Girardet)」——のちに三國さんの師となるフレディ・ジラルデが率いる店です。
三國さんは大使館に勤めた3年8ヶ月の間、休日をすべて返上してその厨房で働きました。この出会いが、三國さんをフランス料理の最前線へと引き上げる扉を開くことになります。
三國清三の実家が生んだ才能と世界的な業績
- フレディ・ジラルデ師事と三つ星修業の日々
- オテル・ドゥ・ミクニ開業とジャポニゼの確立
- レジオン・ドヌール受章と世界への貢献
- 三國清三の妻と家族について
- 現在の活動と新店舗「三國」の挑戦
フレディ・ジラルデ師事と三つ星修業の日々
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三國清三さんが名実ともに世界レベルの料理人へと成長するきっかけは、スイスの巨匠・フレディ・ジラルデとの出会いでした。
「厨房のモーツァルト」と謳われたジラルデは、三國さんの人生を根本から変えた師です。
門前払いから食器洗いへ
ジラルデのレストランに弟子入りする際の逸話は有名です。
ある朝、三國さんは「働かせてくれ」とジラルデのもとに押しかけました。しかし最初は門前払い。三國さんは夕方まで店の前に立ち続けました。
すると、ジラルデ本人が「客の邪魔だ」と三國さんの襟髪を掴み、厨房に押し込んだのです。厨房を見ると汚れた食器が山積みになっていました。「しめた」と思った三國さんは食器をすべて洗い上げ、それを見たジラルデが「困った顔で『お前はどうしたいんだ』」と聞いてきた——これが師弟関係の始まりでした。
この「食器洗いから始める」姿勢こそ、三國さんが「人がやりたがらない仕事が基本」と語り続ける哲学の原点とも言えます。増毛の実家で父親と一緒に打ち上げられた魚を拾い集めた少年は、スイスでも同じ姿勢で師の心をつかんだのです。
7つの三つ星レストランでの修業
ジラルデのもとで本格的な薫陶を受けた三國さんは、さらにフランスの三つ星レストランで修業を重ねます。
その数、なんと7つ。フランス料理の最高峰とされる三つ星店を渡り歩き、各店のシェフたちから直接技を学んだのです。
「どの店でも最初からフランス人と同じか、それ以上の給料を要求した。そうでないと、重要なポジションを与えられない」という三國さんの交渉術も、自分の価値を正当に主張するための戦略でした。
高いギャラを求める哲学
三國さんが若い頃から主張してきた「高いギャラをもらう」という考え方には、深い合理性があります。
安い給料で働けば、重要な仕事や責任あるポジションを任せてもらえない。自分の実力に見合う報酬を要求することで、真剣な仕事と向き合えるポジションを勝ち取ってきたのです。
どこの店でも大歓迎を受けたというのは、それだけの実力と覚悟を三國さんが持っていたからこそ。増毛の漁師町で生まれた少年が、フランス料理界の最前線で認められた瞬間でした。
オテル・ドゥ・ミクニ開業とジャポニゼの確立
フランスでの修業を終えた三國清三さんは、28歳で帰国します。
そして1985年、30歳のときに東京・四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ(Hôtel de Mikuni)」を開業しました。フレンチの天才として、時代の寵児となる瞬間でした。
四ツ谷に誕生した夢の店
オテル・ドゥ・ミクニは、開業当初から政治家や芸能人など多くの著名人が訪れる名店となりました。
スタッフからは「ものすごいパワーがある。天才料理人なのは間違いないけれど、それ以外はほんとに普通のオジサン(笑)」と評された三國さん。しかしその料理への情熱と妥協しない姿勢は、38年以上一貫していました。
「料理は時代で変わる。その時点の最先端の料理を作り続けることが、フランス料理の歴史を作ることだ」という言葉は、三國さんの料理哲学を端的に表しています。
ジャポニゼ——日本とフランスの融合
三國さんが確立した「ジャポニゼ(Japonisée)」は、フランス料理の基本を完璧に押さえた上で、日本の食材の滋味深さを表現する唯一無二のスタイルです。
ほやの五味を体で覚えた増毛の少年が、フランスの最高峰で磨いた技術と融合させた——それがジャポニゼという哲学の本質です。
ウチダザリガニのフリカッセ、東京しゃもとわさび風味のポロネギ添え、秋川牛のサーロインステーキ山椒風味など、日本の食材とフランスの技法が見事に融け合った料理は、世界中の美食家を魅了しました。
全てを捨てての再出発
開業から約38年後、三國さんは驚くべき決断を下します。80席あったオテル・ドゥ・ミクニを取り壊し、カウンター8席のみのオープンキッチンに業態変更したのです。
理由を問われた三國さんは「これまでやってきたことは僕の原点ではない」と答えています。
大きな厨房で大勢のスタッフを率いる形ではなく、自分が直接お客の前に立ち、一皿一皿に魂を込める形へ。71歳での決断は、増毛の海岸で父親と魚を拾っていた少年の原点回帰とも読み取れます。
レジオン・ドヌール受章と世界への貢献
三國清三さんの世界的な評価は、数々の受賞・受章という形で結実しています。
日本人料理人として初めてフランスの最高栄誉を手にするまでの道のりは、増毛の実家を離れた少年の歩みそのものでした。
フランソワ・ラブレー大学の名誉博士号(2013年)
2013年、三國さんはフランスのフランソワ・ラブレー大学から名誉博士号を授与されました。
フランスの食文化への功績が認められた証であり、日本の料理人として、フランス料理の普及と発展に大きく貢献したことへの評価です。
フランス料理を単に輸入するのではなく、日本の食材と感性で「ジャポニゼ」として昇華させた三國さんの仕事は、フランスの食文化の研究者にとっても重要な存在となっていたのです。
レジオン・ドヌール受章(2015年)
2015年、三國さんはフランスの最高勲章「レジオン・ドヌール」シュヴァリエを、日本人の料理人として初めて受勲しました。
レジオン・ドヌールはナポレオンが創設した国家勲章で、200年以上の歴史があります。日本人の料理人としてこの栄誉を手にしたのは、三國清三さんただ一人です。
増毛町の海岸で拾ったほやを食べて育った少年が、ナポレオンが設けた最高の栄誉を日本人料理人として初めて受けた——この事実が、三國さんの生き方の壮大さを物語っています。
グルマン世界料理大賞2020とその他の実績
2020年には「グルマン世界料理大賞(Gourmand World Cookbook Awards)」のHall of Fame部門で唯一入賞し、後世における規範となる傑作と評価されました。
また、20年以上にわたって続ける子どもの食育活動や、YouTubeでの家庭向け料理レシピの発信など、料理の普及活動にも精力的に取り組んでいます。
「今の子は恵まれてるけど味覚が育ってない。なら、それを伝えるのが僕の使命」——増毛の海辺でほやの五味を覚えた三國さんならではの言葉です。
三國清三の妻と家族について
三國清三さんの私生活については、本人が積極的に語ることはなく、妻や子供の詳細な情報は公表されていません。
フランス料理の巨匠として知られる一方、家族については非常にプライバシーを大切にしています。
妻について
三國さんの妻については、氏名も職業も公表されていません。
三國さんがオテル・ドゥ・ミクニを30歳で開業した1985年当時から現在に至るまで、妻の存在を公にすることはなく、プライベートを守り続けています。
これは三國さんが料理にすべてを捧げてきた生き方の中で、家族との時間を聖域として守ってきた姿勢の表れとも言えます。
子供について
三國さんには子供がいることが断片的な情報から確認されていますが、人数や名前などの詳細は公表されていません。
「増毛時代の食育の原体験が自分を作った」と語る三國さんが、自分の子供に食についてどのような教育をしてきたかは非常に気になるところですが、それもプライベートの範囲として語られることはほとんどありません。
ただ、三國さんが20年以上続けている子ども食育活動の情熱を見ると、次世代への食の伝承を何よりも大切に考えていることは間違いないでしょう。それが自分の子供に限らず、社会全体の子供たちへの贈り物となっています。
家族への姿勢と料理人としての覚悟
「米屋の頃から休みを取ったことがない。それを苦労とは思わない。楽しいから」という三國さんの言葉は、仕事への向き合い方を示しています。
休みなく働き続けてきた料理人が家族と向き合う時間をどう作ってきたかは、三國さんの内なるテーマとも言えます。しかし、プライベートを公にしないという選択自体が、家族を守るための行動なのかもしれません。
現在の活動と新店舗「三國」の挑戦
三國清三さんは現在も、現役のシェフとして精力的に活動を続けています。
特に2025年9月に新店舗「三國」をオープンしてからは、新たな挑戦として注目を集めています。
新店舗「三國」開業——カウンター8席の世界
2025年9月、三國さんは新店舗「三國」をオープンしました。
38年続いたオテル・ドゥ・ミクニの80席という大規模な形を捨て、カウンター8席のみのオープンキッチンというスタイルへ転換。三國さん自身が厨房に独りで立ち、目の前のお客一人一人に料理を振る舞うというコンセプトです。
8席であれば量が少なくて済むため、市場に出回らない規格外の希少な食材も扱えるようになりました。「形が歪なものや巨大化したもの、市場には出回らないような食材にこそ、本当のおいしさがつまっている」と語る三國さんらしい選択です。
情熱大陸への出演と注目
2025年11月、三國さんはMBSのドキュメント番組「情熱大陸」に出演し、再出発への思いを語りました。
「これまでやってきたことは僕の原点ではない」という言葉とともに、フランスへ食材探訪に赴き、アンヌ・ソフィー・ピックやミッシェル・トロワグロといった世界的なシェフとの交流も映し出されました。
半年に渡って密着したこの番組は、前へ進み続ける三國さんの姿を鮮烈に描き出し、多くの視聴者に感動を与えました。
YouTube発信と食育活動の継続
三國さんは現在、YouTubeで家庭でできる料理レシピを積極的に発信しています。
フランス料理の巨匠が、一般家庭向けに手軽なレシピを紹介するというスタイルは、料理の民主化への三國さんの信念を表しています。
また、20年以上続けてきた子どもの食育活動も精力的に継続中です。「今の子は恵まれてるけど味覚が育ってない。なら、それを伝えるのが僕の使命」——この言葉は、増毛の海辺でほやの五味を体で学んだ子供時代の自分への誓いとも言えるでしょう。
今後の展望
三國さんはかつて「楽しいから、休んでる暇なんてない」と語っていました。現在も、その言葉は変わっていません。
実家・増毛町の海岸で父親と魚を拾い、ほやで五味を覚えた少年が、フランス料理の最高峰へ登り詰め、今また原点に立ち返ろうとしている。三國清三さんのこれからの挑戦は、日本の食文化の歴史にとっても重要なページを加え続けることでしょう。
三國清三の実家と生い立ちの総まとめ
- 三國清三さんの実家は北海道増毛郡増毛町、日本海に面した漁師町
- 生年は1954年(昭和29年)、2026年04月03日現在71歳
- 幼少期は父親と海岸で打ち上げられた魚を拾う質素な生活を送った
- 「ほや」の五味(甘・酸・塩・苦・旨)を体で覚えたことが料理哲学の原点に
- 15歳で実家を離れ、料理人の道へ踏み出した
- 札幌グランドホテル・帝国ホテルで修業後、スイスへ渡る
- 1974年、駐スイス日本大使館料理長に就任し国際キャリアが始まった
- スイスで「厨房のモーツァルト」フレディ・ジラルデに師事した
- フランスの三つ星レストラン7店で修業を重ね、世界レベルの実力を磨いた
- 1985年、30歳で東京・四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業
- 日仏融合スタイル「ジャポニゼ」を確立し、世界的な評価を得た
- 2015年、日本人料理人で初めてレジオン・ドヌールを受章した
- 2013年はフランスのフランソワ・ラブレー大学の名誉博士号を授与された
- 2025年9月、カウンター8席の新店舗「三國」をオープンし再出発を切った
- 20年以上続く子どもの食育活動とYouTubeでのレシピ発信も継続中

