北川ひかるの実家は石川県金沢市|能登震災で被災した家族の絆

北川ひかるの実家は石川県金沢市|能登震災で被災した家族の絆

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北川ひかるさんは、石川県金沢市出身のなでしこジャパンの一員として2024年パリ五輪に出場した女子サッカー選手です。

ポジションは左サイドバック(DF)で、積極的な攻撃参加と高精度のピンポイントクロスが持ち味の選手として知られています。

実家がある石川県金沢市は、2024年元日の能登半島地震で大きな揺れを受けた地域です。北川さんはその日、実家で家族と一緒に過ごしていたといい、みずからも被災者として地元への思いを深めながらパリへと旅立ちました。

本記事では、北川ひかるさんの実家の場所や家族構成、幼少期の環境と2つの震災体験についてくわしく紹介します。

記事のポイント

①:実家は金沢市、父・喜則さんは建築士

②:元日に実家で能登半島地震を経験

③:兄・拓見さんはアスレチックトレーナー

④:JFAアカデミー福島で2つの震災を経験

北川ひかるの実家と家族構成|石川県金沢市育ち

  • 実家がある金沢市での育ちと環境
  • 父親・喜則さんの職業と人物像
  • 母親・美千代さんの送迎と家族の支え
  • 兄・拓見さんとサッカーを始めた原点
  • 小学校卒業で実家を離れたJFAアカデミー合格

実家がある金沢市での育ちと環境

ここでは、北川ひかるさんの実家がある石川県金沢市と、北川さんの基本プロフィールを整理します。

項目 内容
本名 北川ひかる
生年月日 1997年5月10日
2026年04月04日現在の年齢 28歳
出身地 石川県金沢市
ポジション DF(左サイドバック)
所属クラブ INAC神戸レオネッサ
代表歴 なでしこジャパン(日本女子代表)
主な実績 FIFA U-17女子ワールドカップ2014 優勝

北川ひかるさんの実家は、石川県金沢市にあります。

金沢市は「加賀百万石」の城下町として知られ、兼六園や金沢21世紀美術館など文化・芸術の薫り高い街です。日本海に面した石川県の県庁所在地で、冬は雪が降り積もる日本海型の気候です。観光地としての側面が強い一方、スポーツ環境も充実しており、地域の少年団やスポーツクラブも盛んな地域として多くのスポーツ選手を輩出してきました。

北川さんは幼少期の5歳のときにサッカーを始めたといいます。きっかけは、兄がサッカーをプレーしていた影響でした。自然とボールに触れる機会が増え、小学生のうちにその才能を開花させていきました。金沢市内の小学校に通いながら地域のサッカークラブでプレーし、北信越地区でも頭角を現していきます。

そのプレースタイルは、当時から「スピードと独特のリズムを持ったドリブル」と評価されており、指導者たちの目に早くから留まる存在でした。後に詳しく述べますが、小学校卒業と同時に実家を離れてJFAアカデミー福島に入校するという、当時としてはかなり思い切った決断を下しています。

北川ひかるの家族構成

北川さんの家族構成は、父・喜則さん、母・美千代さん、兄・拓見さんの4人家族です。

続柄 人物 備考
父親 北川喜則さん 建築士
母親 北川美千代さん 送迎などでサポート
北川拓見さん アスレチックトレーナー・2歳年上

兄・拓見さんが北川さんより2歳年上です。全員が石川県金沢市を拠点に育ちましたが、北川さんが小学校を卒業するタイミングで実家を離れ、兄も現在は都内で生活しています。実家を離れた後も、家族の絆がしっかりと北川さんを支え続けていることが、さまざまなエピソードからにじみ出ています。ここ、気になりますよね。

父親・喜則さんの職業と人物像

北川ひかるさんの父親は、北川喜則さんといい、建築士の職業に就いています。

下記の表は、父親・喜則さんのプロフィールをまとめたものです。

項目 内容
氏名 北川喜則さん
職業 建築士
居住地 石川県金沢市

建築士として奥能登の建物調査に従事

喜則さんが世間に広く知られるようになったのは、2024年の能登半島地震がきっかけです。

同年元日に発生した能登半島地震では、石川県の奥能登地域を中心に甚大な被害が生じました。建築士である喜則さんは、地震後に被災地の奥能登へ赴き、建物の安全性を判定する「建物調査」の仕事に携わりました。

建物調査とは、地震によって損壊した建物を専門家が直接確認し、立ち入り可否や修繕の必要性などを判定する作業です。赤い紙(危険と判定された建物に貼られる表示)や黄色の紙を実際に建物に貼り、住民や行政に安全情報を提供する重要な役割を担います。大きな震災が起きるたびに各地から建築士や建築関係者が現地に赴いてこの調査を行います。喜則さんもその一人として奥能登の復興支援に関わりました。

建物調査の仕事は、地震が起きた後に行政や専門家団体が組織的に実施します。石川県内にも多くの建築士が登録されており、大規模な災害が発生した際にはボランティアや公的な依頼のもとで現地調査に赴く仕組みが整っています。建築士である喜則さんも、こうした枠組みの中で奥能登の復旧支援に参加したとみられます。

父と娘が共に見た震災の現実

北川ひかるさんは、地震から約1ヶ月後の1月末、父親の喜則さんが奥能登の建物調査に向かう際に「連れて行って」とお願いしたといいます。

現地で目にしたのは、赤い立入禁止の紙が貼られた建物が立ち並ぶ惨状でした。北川さん自身、「悲惨としか言いようがなかった」と語っており、断水が続く中で復興の見通しも立たない現実に胸を痛めました。父子が共に被災地を見て回るこのエピソードは、北川さんが能登半島地震の被災地への思いを深めるうえで大きな転換点になったといえます。

毎年家族で訪れていた和倉温泉(石川県七尾市)が壊滅的な被害を受けたことも、北川さんの心に深く刻まれました。幼い頃から親しんできた場所の変わり果てた姿は、「何もできない自分が歯がゆい」という強い感情を呼び起こしたといいます。父親・喜則さんが専門職として復興に貢献し続ける姿は、北川さんにとって自分自身もサッカーで何か社会に貢献できることを模索するきっかけになったのではないでしょうか。

母親・美千代さんの送迎と家族の支え

北川ひかるさんの母親は、北川美千代さんといいます。

美千代さんの具体的な職業は公表されていませんが、北川さんが幼少期にサッカーを始めた頃から家族全体でサポートする体制が整っていたことは、さまざまなエピソードから伝わってきます。特に注目したいのが、学生時代の送迎に関するエピソードです。北川さんが地域のサッカークラブや学校の練習に参加する際、美千代さんが積極的に送迎を行っていたと伝えられています。

練習への送迎が選手を育てる

サッカーをはじめとするスポーツ選手の育成において、保護者の送迎サポートは見逃せない要素です。早朝や夜間の練習、遠征への対応など、親の協力なしには継続的な活動が難しい場面も多いといいます。

北川さんが地元クラブで才能を磨き、北信越地区のトレセン(トレーニングセンター)に召集されるような実力をつけていく背景には、美千代さんをはじめとする家族の日々のサポートがあったと考えられます。JFAアカデミー福島への受験を決めた際も、家族全員が北川さんの意思を尊重し、応援したとみられます。アカデミーは寄宿舎生活が基本で、小学校卒業という早い段階から親元を離れる選択を求められます。それを家族として受け入れたことも、北川さんが競技への集中力を高める環境の一つになったはずです。

実家への帰省と家族の絆

中学校入学と同時に実家を離れた北川さんですが、その後も折に触れて家族との絆を大切にしてきたことがうかがえます。

2024年元日には金沢市の実家で家族と過ごしていたことが報道されており、休暇のタイミングに実家へ戻り、家族と一緒に時間を過ごすことを大切にしていることが分かります。「記念写真を撮影してショッピングモールを出た直後に地震が来た」という証言からも、元日という特別な日を家族全員で過ごしていたことが伝わってきます。

プロとして多忙なシーズンを送りながら、オフには必ず実家に帰って家族との時間を確保する——そういった姿勢が、北川さんの精神的な土台を支えているのかもしれません。美千代さんをはじめとする家族の温かい存在が、北川さんの競技人生を陰で支えていることは間違いありません。子供の頃から続く家族の絆は、プロとなった今もしっかりと生きています。

兄・拓見さんとサッカーを始めた原点

北川ひかるさんには、2歳年上の兄・北川拓見さん(アスレチックトレーナー)がいます。

下記の表は、兄・拓見さんのプロフィールをまとめたものです。

項目 内容
氏名 北川拓見さん
年齢差 2歳年上
職業 アスレチックトレーナー
現在の居住地 東京都内

5歳のひかるにサッカーを教えた兄の存在

北川ひかるさんがサッカーを始めたのは5歳のとき。そのきっかけとなったのが、当時サッカーをプレーしていた兄・拓見さんの影響です。

兄がサッカーボールを蹴っている姿を見て「自分もやってみたい」と思ったのがはじまりで、小学生時代は2人で日が暮れるまで一緒にボールを蹴り続けたといいます。この兄弟での猛練習が、北川さんのサッカーの原点です。近所の公園や空き地で兄妹が夢中でボールを追いかける姿は、今の北川さんのプレーの礎となっています。

その後、拓見さんはサッカー選手としての道ではなく、アスレチックトレーナーの道を選びました。アスレチックトレーナーとは、スポーツ選手のコンディション管理やリハビリ、障害予防などを専門的に担うプロフェッショナルです。サッカーや野球などのプロスポーツ現場でも活躍が求められる職種で、選手のパフォーマンスを支える重要な存在です。兄が競技とは別の形でスポーツ界に携わっている点も興味深いですよね。

代表選出まで妹を見守り続けた兄の思い

中学1年から親元を離れてJFAアカデミー福島で育ち、プロになってからもなかなか代表に定着できなかった北川さんの姿を、拓見さんはずっと見守り続けました。

代表選出がかかった局面では「ずっとそこ(代表)でプレーしたいと思っていたその気持ちをぶつけてきてほしい」と言葉を送り、妹の背中を押したといいます。2024年パリ五輪の代表入りが決まったとき、拓見さんは「長かった」という一言でその道のりを表現しました。代表に選ばれてほしいと願い続けた長い歳月が、その短い言葉に凝縮されています。

現在、拓見さんは東京都内に在住しており、妹の試合を遠くから応援する日々を続けています。同じスポーツ界でそれぞれの形で関わり続けている兄妹の関係は、多くのファンにとっても心温まるエピソードです。兄の影響でサッカーを始め、兄に見守られながら夢の舞台に立つ——そんな北川さんの姿は、家族の絆の大切さを教えてくれます。

小学校卒業で実家を離れたJFAアカデミー合格

北川ひかるさんは、小学校を卒業と同時に石川県金沢市の実家を離れ、JFAアカデミー福島の第5期生として2010年に入校しました。

JFAアカデミー福島とは

JFAアカデミー福島とは、日本サッカー協会(JFA)が運営するエリート選手育成機関です。将来の女子日本代表(なでしこジャパン)を担う逸材を発掘・育成することを目的として設立されました。入校には厳しい選考試験があり、全国から集まる応募者の中から選ばれた少数精鋭が寄宿舎生活を送りながらサッカーの技術と心身を磨く場所です。

アカデミーへの倍率は約20倍とも伝えられており、北川さんが合格を勝ち取ったことは、当時の実力の高さを示しています。静岡県御殿場市にある富士岡中学校へ転校し、約2年間を過ごしました。アカデミーでは体格で上回る年上選手との練習・試合を重ねることで、当時から「日本の女子選手が体格で劣る海外勢と戦うための術」を自然と身に着けていきました。この経験が、後のなでしこジャパンでの国際舞台での活躍にも生かされているとコーチ陣は評価しています。

コーチが記憶する「けなげな少女」の姿

当時アカデミーのコーチをしながらJFAナショナルトレセンの北信越担当も務めていた沖山雅彦さんは、小学6年生だった北川さんが自ら手を伸ばして「テストを受けたいので、私にもパンフレットください」と伝えた姿を鮮明に覚えていると語っています。

その後、実技試験(3回)を通じて、沖山さんは北川さんの「スピードと独特のリズムを持ったドリブル」に将来性を見出しました。年上選手との試合経験の中でさらに技を磨き、それが海外勢との対戦経験の豊かさにもつながっていったといいます。

小学6年生の終わりに「家を出たい」と決意し、実際に合格をつかみ取り、中学1年からは寄宿舎生活を送りながらサッカーに打ち込む環境に身を置いた北川さん。当然、金沢の実家とは離れて暮らす日々が続きます。中学生という多感な時期に親元を離れる選択は決して簡単なことではありませんが、その厳しい環境が北川さんを強くしたことは疑いありません。自ら手を挙げ、自らの意思で扉を開いた北川さんの積極性は、今のプレースタイルにも表れているように感じます。

北川ひかるの実家と震災|2つの経験が生んだ強さ

  • 能登半島地震と実家での元日被災
  • 父と訪れた奥能登の惨状
  • JFAアカデミー時代の東日本大震災
  • 2つの震災が育てた使命感と発信力
  • パリ五輪への道|移籍歴と代表定着まで

能登半島地震と実家での元日被災

2024年1月1日、石川県能登地方を中心に最大震度7を記録した能登半島地震が発生しました。

その日、北川ひかるさんは石川県金沢市の実家で家族と過ごしていました。年末年始の休暇を地元で過ごし、記念写真を撮影してショッピングモールを出たとき、突然の大きな揺れに見舞われたといいます。北川さん自身と家族は無事でしたが、震源に近い奥能登地域では建物の倒壊や津波被害が相次ぎ、甚大な被害が広がっていました。

テレビから流れてくる報道は衝撃的な映像ばかりで、ショッピングモールを出た安堵もつかの間、その後は家族と一緒にニュースを見続ける夜になりました。特に北川さんの心に大きな衝撃を与えたのが、毎年家族で訪れていた和倉温泉(石川県七尾市)の被害でした。幼い頃から親しんできた場所が壊滅的な状況に陥ったことを伝える報道を目にして、言葉を失ったといいます。

「何もできない自分が歯がゆい」という感情

「何もできない自分が歯がゆい」——北川さんがこの言葉を口にしたのは、被災地の状況を報道で見ながらも、自分がその場で何か力になれることがないという無力感からでした。

その後、北川さんはなでしこジャパンの一員として積極的に取材に応じ、能登半島地震の現状を発信し続けています。自分がスポーツ選手として注目される立場を生かし、「被災地のことを忘れないでほしい」というメッセージを届け続けているのです。

元日に家族で記念写真を撮り、その直後に被災するという体験は、北川さんにとって家族の存在の大切さをあらためて感じさせるものでもありました。実家での団らんの時間が、突然の大地震によって切り裂かれる——そのような体験をしながら、北川さんは復興支援と競技活動を両立させる道を歩み続けています。

父と訪れた奥能登の惨状

地震から約1ヶ月後の2024年1月末、北川ひかるさんは建築士の父親・喜則さんが奥能登の建物調査に向かうタイミングで「連れて行って」と頼み、被災地を直接訪れました。

奥能登で目にした光景は、テレビの映像をはるかに超えるものでした。

赤い紙が貼られた建物が立ち並ぶ現実

建物調査の現場では、危険と判定された建物に「赤い紙(危険判定)」が貼られています。それが通りのあちこちに貼られている光景を、北川さんは自分の目で見ることになりました。

「悲惨としか言いようがなかった」——これが北川さんが当時を振り返って語った言葉です。断水はようやく終わりに向かっていたものの、復興への道はまだまだ遠く、建物の多くは傾いたり崩れたりしたままの状態でした。住民たちに「がんばりましょう」と声をかけることしかできなかったと振り返る北川さんの言葉には、その場にいながら何もできない無力感と、それでも言葉をかけ続けることへの強い意志が感じられます。

「終わっていない」という言葉の重さ

奥能登を訪れた体験を経て、北川さんが強調し続けたのが「震災はまだ終わっていない」というメッセージです。

時間が経つにつれ、報道は減り、人々の記憶も薄れていきます。しかし現地の復興は一朝一夕には進みません。建物が片付けられ、インフラが復旧し、住民が通常の生活を取り戻すまでには何年もかかることが多いのです。北川さんは「時が経つにつれ、人の記憶は薄らぐ。だからこそ自分自身を含めて発信してやれることはやりたい」と話しており、被災地への関心を持ち続けることを自らの使命として捉えています。

父親が専門家として現地の復興に貢献する姿を間近で見ながら、自分はスポーツ選手として被災地への光を当て続ける——北川さんとその家族が互いに別々の形で石川への思いをつなぎ続けています。被災地に足を運び、自らの目で現実を確認したうえで発信するという姿勢は、単なる言葉以上の説得力を持っています。

JFAアカデミー時代の東日本大震災

北川ひかるさんが経験した大きな震災は、能登半島地震だけではありません。

JFAアカデミー福島に入校した北川さんは、中学1年生だった2011年3月11日、東日本大震災を現地・福島で経験しました。

Jヴィレッジで被災した夜

震災当日、北川さんたちはサッカーの練習拠点だったJヴィレッジ(福島県楢葉町・広野町)にいました。突然の激しい揺れの後、雪が降る中、建物の入り口のガラスが飛び散った玄関に布団を並べ、チームメートと一緒に一夜を明かしたといいます。

「またサッカーをできるのかな」——暗く寒い夜、仲間と身を寄せ合いながら涙をこらえた北川さん。まだ中学1年生という年齢で、故郷からはるか遠く離れた福島で、想像を絶する災害に直面しました。ようやく生活に慣れてきた福島を離れ、しばらく石川県金沢市の実家に戻ることになりました。

いったん実家へ戻り、練習拠点が静岡に移った日々

東日本大震災の後、JFAアカデミーの練習拠点もいったん静岡に移さざるを得ない状況となります。慣れ親しんだ福島を突然離れ、再び新しい環境に適応しなければならないという、想定外の変化を中学生の北川さんは経験しました。

そんな辛い時期に、北川さんの心を強くしたのが「先輩たちの姿」でした。東日本大震災が起きたまさにその年の夏、なでしこジャパンはFIFA女子ワールドカップで優勝を果たします。澤穂希さん、岩清水梓さん、宮間あやさんといった先輩たちが世界の頂点に立つ姿は、被災した全国の人々に希望を与えるものでした。

「あの時のメンバーみんながヒーローだった。こうなりたいと心から思った」——北川さんは当時をそう振り返っています。この体験が、北川さんの「なでしことして被災地に希望を届けたい」という思いの原点になっているのは間違いありません。先輩たちにもらった勇気を、今度は自分が次の世代に伝えていく——そんな使命感が、北川さんの競技人生を支え続けています。

2つの震災が育てた使命感と発信力

東日本大震災と能登半島地震——2つの大きな震災を経験した北川ひかるさんが特に訴え続けているのが、「時間が経っても被災地への関心を持ち続けてほしい」というメッセージです。

このメッセージの背景には、2つの震災を通じて積み重ねてきた個人的な体験があります。東日本大震災では自分が先輩たちに希望をもらった側でした。今度は能登半島地震という新たな災害を経て、自分がその立場になったと感じているといいます。

2024年7月・金沢で1日警察署長を務めた

パリ五輪の壮行試合に向けた練習が続く中、北川さんは2024年7月初旬に地元・金沢で1日警察署長を務めました。これは地元への思いと復興支援への関心を示す行動でもあり、「自分自身を含めて発信してやれることはやりたい」という言葉を体現するものでした。

1日警察署長という異色の活動は、スポーツ選手が地域に根ざした形で貢献できる一つの形として、地元メディアでも大きく取り上げられました。競技以外の場面でも地元への愛着と貢献意識を見せる北川さんの姿勢は、多くの人に感動を与えています。

WEリーグ終了後も積極的に取材対応

パリ五輪前のWEリーグ(女子プロサッカーリーグ)のシーズンが終わった後も、北川さんは積極的に取材に応じ、自主トレーニングと並行して能登半島地震の被災地の現状を発信し続けました。「被災地からパリへ」という姿勢は、五輪への注目度をうまく活用して被災地の現状を広く伝えることにもつながっています。

「今度は自分がそれをやる立場」——この言葉は、2011年に先輩たちがW杯優勝で被災地に勇気を届けたことへの感謝と、今の自分への強い責務感の両方を表しています。2つの震災を語り継ぎ、競技活動を通じて被災地への光を当て続けることが、北川ひかるさんのアイデンティティの一つになっているといえます。被災地に足を運び、自らの目で確かめたうえで発信するその誠実さは、スポーツ選手としても一人の人間としても多くの人に響いています。

パリ五輪への道|移籍歴と代表定着まで

北川ひかるさんは、JFAアカデミー福島を2016年に卒業と同時に浦和レッズレディースに正式入団しました。

以下の表は、北川さんのクラブ経歴をまとめたものです。

期間 所属クラブ 備考
〜2016年 JFAアカデミー福島 第5期生として卒業
2016年〜2018年 浦和レッズレディース 正式入団
2018年〜2022年 アルビレックス新潟レディース 移籍
2023年〜 INAC神戸レオネッサ 移籍・現在も所属

浦和レッズ入団時の評価

浦和レッズレディースへの入団前、北川さんは高校3年時(アカデミー在籍中)に特別指定選手としてすでにプレーしていました。当時浦和のコーチを務めていた神戸慎太郎さんは「線はまだ細かったけど、負けん気は強かったよ」と評価していました。顔面にけがをしても、フェースガードを付けて試合に出たエピソードが語られており、その根性と粘り強さが印象的だったといいます。

アカデミーで東日本大震災を経験した最後の世代として、誰よりも震災への思いを持ち続けてきた北川さんが、トップリーグの舞台へと羽ばたいていきました。2018年にはアルビレックス新潟レディースへ移籍し、さらに経験を積んでいきます。

代表定着への長い道のりとパリ五輪

なかなか代表に定着できない時期も経験しながら、北川さんは着実にレベルアップを続けてきました。2023年にINAC神戸レオネッサへ移籍してからは左サイドバックとして安定したパフォーマンスを発揮し、ついに2024年パリ五輪の代表メンバー入りを果たします。

しかし、五輪出場への道は平坦ではありませんでした。能登半島地震復興支援マッチと銘打たれた金沢市でのガーナとの壮行試合で右ひざを負傷。渡仏後も別メニュー調整が続き、初戦のスペイン戦はベンチ入りさえできない状況でした。それでも北川さんはくじけませんでした。被災地への思いを抱え、先輩たちからもらった希望を今度は自分が届ける番だという強い意志が彼女を支えていたはずです。

「五輪でも左サイドを活性化できるようにやりたい。金沢のスタジアムも(観客で)埋まってもらいたいし、見て何か感じてもらいたい」——そう語った言葉には、地元への愛と、スポーツで社会に貢献したいという北川さんの真摯な姿勢が凝縮されています。2019年のFIFA U-20女子ワールドカップでは3位という成績も残しており、世界基準でのプレー経験も豊富です。これからのなでしこを引っ張る存在として、さらなる活躍が期待されています。

北川ひかるの実家と家族が育んだなでしこ魂の総まとめ

  • 北川ひかるさんの実家は石川県金沢市にある
  • 1997年5月10日生まれのDF選手、なでしこジャパン代表
  • 父親は北川喜則さん(建築士)、母親は北川美千代さん
  • 兄・北川拓見さんは2歳年上のアスレチックトレーナー(東京在住)
  • 兄の影響で5歳からサッカーを始め、兄弟で日が暮れるまで練習した
  • 母親・美千代さんは学生時代の送迎などで家族全体がサポートした
  • 小学校卒業と同時に実家を離れJFAアカデミー福島に入校(倍率約20倍)
  • 中学1年で東日本大震災を福島のJヴィレッジで経験し実家に戻った
  • なでしこW杯優勝に励まされ「先輩のようになりたい」と誓った
  • 2024年元日に実家で能登半島地震を経験し、家族は全員無事
  • 父親の建物調査に同行し奥能登の惨状を直接目の当たりにした
  • 「終わっていない」と訴え、被災地への関心を発信し続けている
  • クラブ歴は浦和→新潟→INAC神戸と移籍しキャリアを積み上げた
  • 右ひざ負傷を乗り越え2024年パリ五輪代表に選ばれた
  • 2つの震災体験が「被災地に勇気を届けたい」という使命感の原点となっている

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